午前九時の違和感
朝の事務所は静かだった。僕がコーヒーの粉を間違えて冷蔵庫にしまいかけた頃、インターホンが鳴った。来客だとわかっていても、少し面倒な気分になるのはいつものことだ。
ドアを開けると、スーツを着た中年の男が立っていた。穏やかな口調で相続登記の相談だという。名前と身分証を差し出された時、妙な既視感が僕の脳裏をよぎった。
依頼者が持参した書類
提出された運転免許証と住民票、印鑑証明。どれも形式上は問題ない。だが、あまりにも整いすぎているようにも見えた。経験上、何かを隠そうとする人間ほど書類が完璧だった。
「戸籍謄本もあります」と男は言った。そこにも違和感はなかったが、僕の直感が警鐘を鳴らしていた。なぜか、写真の男が本当にこの人物なのか自信が持てなかった。
サトウさんの冷静な指摘
「名字、前より長くなってませんか」サトウさんが書類を見ながら呟いた。その声は冷たく鋭い。僕は慌てて見直す。たしかに、以前に同じ名前を見た記憶があるが、字面が微妙に違っていた。
「多分、通称と本名を巧妙に使い分けてますね。女の勘です」とサトウさんは続けた。その「女の勘」ほど頼りになるものはない、というのが僕の持論だ。
住所と名前が語る嘘
改めて住民票と免許証を照らし合わせると、住所の番地が微妙に違っていることに気づいた。区画整理のタイミングなのか、それとも単なる記載ミスなのか。いや、どちらでもなかった。
「本籍地は変更されていませんね。にもかかわらず住所だけ新しい。それって妙じゃないですか?」サトウさんが言う。彼女の指摘はいつも本質を突く。
免許証に刻まれた謎
免許証の裏面を見ると、更新履歴が直近で切れていた。写真も新しすぎる印象がある。「写真の背景、これ合成じゃないですか?」サトウさんが言った。
たしかに、影の位置がやや不自然だった。コナン君もびっくりの観察眼である。僕はそっと頷きながら、コピーを取りに向かった。
住民票の矛盾点
住民票には確かに同じ氏名が載っていたが、前住所欄の記載が不自然に飛んでいた。空白期間がある。つまり、その間に何かがあったということだ。
「これは住民票の“消しゴムトリック”かもしれませんね」とサトウさんが言った。怪盗キッドがやりそうな手口だ。やれやれ、、、また面倒な相手か。
調査開始と足取りの追跡
昼休み、僕は役所へ向かった。住民票の履歴をさかのぼると、同じ名前で数回移転している記録があった。しかも、どの住所も持ち家ではなく全て月極の借家だ。
本人確認書類は「本物」だった。しかし、「本人」は別人かもしれない。気づけば僕は、書類の迷路に深く入り込んでいた。
市役所での小さな手がかり
受付の女性がぽつりと、「あの方、以前にも違う名義で相談に来られてましたよ」と漏らした。僕は急いで記録を確認する。やはり、同一人物が別名で複数回手続きをしている。
なぜそんなことを?偽装相続か?それとも、借金逃れの仮装登記か?僕の中で歯車が噛み合い始めていた。
サザエさんに似た展開
「これって、まるでサザエさんでタラちゃんが変装して別人を演じてるのに誰も気づかない感じですね」僕が冗談を言うと、サトウさんは無言で書類を差し出した。「見てください、笑ってる場合じゃないです」
確かに、その紙には決定的な情報が載っていた。別名義で所有していた不動産の登記記録。すべて繋がった。
やれやれ、、、仕事が増える
僕は深くため息をつきながら、登記官に連絡を入れた。事情を説明し、必要な修正と報告の段取りを取る。やれやれ、、、昼飯抜きでこれはきつい。
「お弁当、冷蔵庫に入れましたよ。さっき粉コーヒーもそこに入れてましたけど」サトウさんの塩対応に少しだけ癒された。
再訪した依頼人の態度
午後、男が再び現れた。僕の顔を見ると、すぐに観念した様子で座った。「やはりバレましたか」と小さく呟いた。
「あなた、誰の戸籍を使っていたんですか?」と問いかけると、「兄です」との答え。二重生活で手に入れた財産を名義変更しようとしていたらしい。
元野球部のカンが働く瞬間
グローブ越しの直感って、意外と応用が効くものだ。高校時代、盗塁を見抜いたときのあの感覚。あれが今回の件でも働いた。
「最初からあなたは、何かを隠してる目をしてましたよ」と僕は言った。なんて、ちょっとだけカッコつけてみた。
裏口から現れた真実
後日、調査報告書が届き、男の二重生活が裏付けられた。兄の死後、彼の身分を使って生活していたのだ。あらゆる申請を別人として行い、法の網をかいくぐっていた。
司法書士として、こうしたケースに出会うことは少なくない。でも今回は、なんだか事件っぽかった。サトウさんの推理力と、僕のうっかり感知センサーがなければ見逃していただろう。
本物の本人は別人だった
すべてが片付いた後、役所から正式に報告があった。「ご協力ありがとうございました。今後は刑事事件として扱います」とのこと。
これで一件落着。だが、本人確認とはなんと曖昧なものか。書類があっても、中身までは証明してくれない。
不正登記の手口と動機
彼の動機は単純だった。「兄の名義なら借金も逃れられるし、生活もスムーズだった」それだけのことだった。
だけど、法を欺くその軽さが、僕にはどうしても許せなかった。たとえうっかり者でも、真面目に書類と向き合ってるんだ。
結末とサトウさんの一言
報告書を閉じた僕に、サトウさんが言った。「次は、もっと簡単な登記案件が来るといいですね」それはきっと、彼女なりのねぎらいの言葉だった。
僕は「そうだな」と返しながら、冷蔵庫から冷たいコーヒーを取り出した。また間違えていたけど、今日はそれでもいい気がした。
塩対応に込められた感謝
「コーヒー、粉のまま飲むのやめてくださいね」いつものサトウさんの塩対応が、妙にあたたかく聞こえた。彼女の存在が、僕の背中をそっと支えている。
事件は終わり、また日常が戻ってくる。でも司法書士の日常は、いつも小さな謎に囲まれている。だから今日も書類とにらめっこだ。
次の依頼へと続く日常
パソコンがピンと音を立てた。新しいメール。「不動産の名義変更について相談したい」とある。僕は画面を閉じて、背伸びをした。
やれやれ、、、また始まるな。だけどそれも、悪くないかもしれない。