朝の電話は不穏な気配
朝一番、電話の着信音が事務所の静寂を破った。
受話器の向こうからは、どこか湿った声が聞こえた。
「父が、亡くなりました。…遺言書が、見つからないんです」。
被後見人の死去と一本の連絡
亡くなったのは、僕が後見を務めていた高齢男性、矢部辰男さん。
成年後見の申し立てから三年、意思疎通も難しくなり始めていた矢先だった。
その矢部さんに遺言がある、そう信じていた長男からの一報だった。
遺言書の有無を問う依頼者の声
「父は何度も、遺言を書いたと言っていたんです」
そう語る依頼者の顔には焦燥が浮かんでいた。
僕の記憶にも、確かに「自筆証書遺言を書いた」という本人の言葉が残っている。
書類の中の沈黙
彼の部屋には書類が散乱していた。だが、遺言書らしきものは見当たらない。
封筒の束、古い年賀状、税金の督促状。だがそれらは全て黙して語らず。
まるで大切な何かだけが、意図的に抜き取られたかのようだった。
見つからない遺言書
探しても、探しても、遺言書は影も形もない。
それどころか、あったはずの金庫が部屋から消えていた。
「お父さん、先月突然片付け始めたんです」と次男が口を滑らせた。
金庫の鍵はどこへ消えたのか
金庫がなくなった?普通、そんなことあるか?
いや、サザエさんのカツオだって、タラちゃんの貯金箱は勝手に持ち出さないだろう。
それほど不可解だった。だが、サトウさんは冷静だった。
管理施設での違和感
矢部さんは自宅ではなく、数ヶ月前から小さな施設に入所していた。
そこでも数回、僕は訪問している。そのたびに、彼は何かを伝えたそうにしていた。
だが、言葉にならなかった。
後見記録と職員の証言
施設の職員は言った。「遺言のこと、何度も口にしてましたよ」
「でもね、いつも同じように、“鍵があれば”って…」
鍵?それは金庫の鍵のことか、それとも何かの暗号か?
奇妙なメモとサトウさんの直感
施設のベッドの下から見つかった一枚のメモ。
「青い本の裏、鍵の記憶は消えず」とだけ記されていた。
サトウさんはその場でポツリとつぶやいた。「インクですね」
遺言能力のタイムリミット
遺言書の効力には「遺言能力」が必要だ。つまり、意思表示が明確にできる時期でなければならない。
もしその時期を過ぎていれば、どんな遺言も無効となる。
施設のカルテを見ると、意識が明瞭だったのは半年前まで。
医師の診断書が示す判断能力の境界
「この日を境に、意思疎通が困難になりました」と書かれた医師の診断書。
その日付は、まさに“青い本”が書棚に追加された頃と一致していた。
全てはギリギリだった。わずか数日の差が命取りになる。
遺言書の日付が意味するもの
仮に遺言があったとして、その日付が診断書より後であれば意味がない。
逆なら、有効な遺言書となる可能性はある。
問題は、それが見つからないという一点に尽きる。
家族の誰が得をするか
家族構成は複雑だった。長男と次男、それに疎遠な妹と姪。
誰もが「自分こそが正当な相続人だ」と思っているようだった。
だが、被後見人が何を望んでいたのかは、誰も知らない。
長男の焦りと次男の沈黙
長男は目を血走らせていた。次男は終始無言。
だが、無口な人間こそ、何かを隠していることが多いのは常だ。
その沈黙が意味するところは深かった。
姪の証言が崩した前提
「おじいちゃん、よく“あの人にだけは渡したくない”って言ってました」
姪の一言が空気を変えた。誰のことを言っていたのか?
その答えが、この遺言の本質に関わっていた。
筆跡と真筆の狭間
ついに発見された遺言書は、青い本の裏の封筒にあった。
だが、その筆跡が奇妙だった。いつもの矢部さんの字とは違う。
筆跡鑑定が必要だ。
遺言書の偽造を疑うサトウさん
「インクが違います。筆圧も不自然です」
サトウさんの鋭い観察が、真贋の糸口を掴んでいく。
まるで探偵漫画の主人公のように、無駄のない言葉で真実を暴いていく。
鑑定に向けて動き出す司法書士
「やれやれ、、、また厄介な話になってきた」
僕は重たい腰を上げ、筆跡鑑定士のもとへ資料を持って向かった。
結論が出るまで、また胃が痛くなる日々が始まる。
やれやれ、、、最後の手がかりはあの文具店
遺言書に使われた万年筆インクが特殊なもので、地元で取り扱っているのは一軒のみ。
文具店の老店主は、「この色を買ったのは数ヶ月前、一人だけだった」と証言した。
それは、長男ではなかった。
昔ながらのインクのにおい
インクのにおいを嗅ぎながら、僕は高校時代の部活帰りを思い出していた。
あの頃のように、一球入魂とはいかないが、一証入魂ならできるかもしれない。
文具は嘘をつかない。ただ、使う人間が問題だ。
店主が語った「ある日」の記憶
「封筒を持ってきて、“この中に大事なものがある”と、あの人は言ってました」
その「あの人」とは、意外にも姪だった。
矢部さんが最後に信じたのは、家族ではなく彼女だった。
封じられた言葉の意味
遺言は有効だった。日付は遺言能力がある期間内。
内容は、姪にすべての財産を相続させるという驚きのものだった。
そこに記された一言が胸に刺さる。「愛は、遠くにあった」。
被後見人が遺した本当の想い
遺産の分配以上に、誰に思いを託したかが重要だった。
孤独だった彼にとって、最後に心を許したのは血縁の濃さではなかった。
それは、そっと話を聞いてくれる存在だった。
そして一通の手紙が示す決意
封筒の中に、もう一通の手紙が入っていた。
それは、僕宛ての感謝の言葉だった。「ありがとう、守ってくれて」
この仕事、やっててよかった。少しだけ、そう思えた。
エピローグ 静かな帰り道
事務所に戻る途中、秋風が少しだけ涼しく感じた。
「次の案件、山ほどありますけど」とサトウさんが淡々と言う。
やれやれ、、、休ませてくれとは言えなかった。
シンドウとサトウの会話
「やっぱりあんた、ちゃんと仕事するんですね」
「皮肉か?」
「誉め言葉です。珍しく」
肩をすくめる僕の横で、サトウさんはわずかに笑っていた。
心に残ったのは遺言よりも
遺言書よりも、最後の感謝の手紙が忘れられなかった。
紙に書かれた一文が、僕の心のどこかに灯をともしたようだった。
人の心を扱うこの仕事、やっぱり面倒だけど、悪くない。