朝のデスクに向かうだけで、もう限界
今日は特にそう思った。机に向かった瞬間、深いため息が出てしまった。別に特別なトラブルがあるわけじゃない。けれど、毎日押し寄せる書類と電話と、終わらない業務。それがゆっくりと、確実に心をすり減らしている。最近では、朝の通勤中から「今日は何をキャンセルできるか」を考えてしまう自分がいる。これはもう、限界に近い証拠だろう。
昨日も帰宅は23時過ぎだった
業務の最後のメールに返信して、事務所を出たのが22時半。コンビニでおにぎりとビールを買って、自宅でひとり虚しく食べた。誰かに「お疲れさま」と言ってもらえるわけでもなく、ただ眠るためだけに帰る部屋。仕事があるのはありがたいけれど、それが日常のすべてになってしまった今、「ありがたさ」はむしろ重荷になっている気さえする。
誰のために働いてるんだろう
依頼者のため、というのは建前だ。本音を言えば、もう自分が何のために働いているのかすら分からなくなる時がある。生活のため?社会的な立場のため?いや、どれもしっくりこない。ただ「やらなければならないから」やっている。それだけだ。情熱なんて、もうとうの昔にどこかへ消えてしまった。
感謝されることと引き換えに疲弊していく
もちろん感謝の言葉をもらうこともある。「助かりました」と言われれば嬉しい。でも、その一言で背負った重圧が軽くなるわけじゃない。むしろ、次も期待されてしまうことがプレッシャーになる。やればやるほど、自分の心は磨耗していく。こんなに疲れる仕事なのに、誰にも見えないのがまたつらい。
気づけば、空だけがきれいだった
帰り道、ふと空を見上げたら、雲ひとつない満月の夜だった。思わず立ち止まってしまった。こんなに空がきれいなのに、最近は見上げる余裕すらなかったことに気づく。自然は何も変わっていないのに、自分の心だけがどんどん荒れていた。空を見て涙が出そうになったのは、たぶん心が限界を迎えていたからだと思う。
見上げる余裕すらなくなっていた自分
昔はもっと、ちょっとしたことに感動できる人間だった気がする。朝の光、道端の花、犬の散歩風景。今ではすべて「仕事のジャマ」くらいにしか思えない。見なくなったのではなく、見えなくなっていたのだ。忙しさは、心の視界を狭くしてしまう。そのことに、ようやく気づいた。
一通のメールで、今日も心が折れる
朝一番に届いたメールに「至急お願いします」の文字。それを見ただけで、胃がきゅっと痛くなる。こちらの都合なんてお構いなしだ。こっちは昨日のタスクすら終わっていないのに、今日も新しい“急ぎ”が降ってくる。どこかに行きたい、どこでもいいから今すぐここじゃない場所に。
「至急」「今すぐ」「急ぎ」…誰の時間だよ
「急ぎでお願いします」──その言葉がこんなにも暴力的に感じる日が来るとは思わなかった。誰かの“急ぎ”をこなすために、こちらの時間が容赦なく削られていく。それが当たり前になっている現実に、自分でも驚く。感情はもうとっくに枯れ果てて、ただ淡々と対応する日々。これじゃ機械と変わらない。
他人の焦りをそのまま押し付けられる日々
「相手も大変なんだろう」と思ってしまう自分が嫌だ。本当は「それはあなたの事情でしょう」と言いたいのに、言えない。自分の中にある優しさが、自分を苦しめている。でも、その優しさをなくしたら、自分が自分でなくなる気がして、また何も言えずに一日が終わる。