朝一の裁判所より心の中の片づけが先だった
司法書士・進藤雅人。
地方の古びた事務所で朝一番に開くのは、登記簿でも裁判書類でもない。むしろ自分の感情のフタだ。
その日も6時半。
元野球部らしく目覚ましが鳴る前に目は覚めたが、起き上がる気力がなかった。昨日、相続で揉めた兄弟の仲裁に入って疲れ果てたのだ。口を挟むたびに責任の無さを感じさせられ、ただ「登記を進めるだけの人間」に戻るのが虚しかった。
台所で冷えた味噌汁をすすりながら、俺はぼんやり思った。
「……サザエさんなら、この状況をどうするんだろうな」
波平あたりが「雅人くん、しっかりしなさい」と説教してきそうだ。
着替えながらメールチェック。
件名「至急」だらけで、どれも「重要」ではなさそうに見えるあたりが哀しい。
事務所に行くと、サトウさんがすでに掃除を終え、落ち着いた様子でパソコンを叩いていた。いつものように完璧だ。
「先生、顔が……暗いですね」
「そりゃ朝日も避ける顔色さ」
俺の冗談に、サトウさんは薄く笑っただけだった。
そのとき、机の上の書類が目に入った。
今日の第一件。相続登記。申請期限は迫っている。依頼人は娘二人を抱えるシングルマザー。昨日、子どもの靴を買いに行くために、打ち合わせを15分早く切り上げた人だ。
「やれやれ、、、」
声に出たかどうかも分からない。でも確かに、心のどこかでそのセリフを呟いていた。
まるで探偵漫画の冒頭、依頼者の顔からすべてを読み取る名探偵のように、俺も依頼者の生活感と焦りを読み取ってしまう。それなのに俺自身のこととなると何も見えやしない。
裁判所での申立ては10時。
でもそれまでに、このもやもやした感情の整理がつくのか。判子を押す手が震えるようじゃ、ただの事務員以下だ。
ふと、外を見た。
抜けるような青空。何もかもを洗い流してくれそうな青。
俺はコートを羽織り、サトウさんに言った。
「ちょっと回り道して裁判所行ってくる。あの喫茶店でコーヒー飲んでくるわ」
「10時までに戻ってくださいよ」
「…たぶん」
サトウさんの目が少し笑った。
その瞬間、自分の中で何かが少し片づいた気がした。
朝一の裁判所より、心の中の片づけが、やっぱり先だったのだ。
この物語は、小さな感情の乱れに気づくことが、大きな一歩になるという話。
司法書士だって、心を整える時間が必要なのだ。書類も、心も、順番が大事。