依頼人は片想いの中にいた

依頼人は片想いの中にいた

朝の申請書とサトウさんの塩対応

朝、事務所のドアを開けると、机の上に無言の書類の山が鎮座していた。サトウさんはすでに出勤しており、コーヒーの湯気だけが微かにこちらの存在を歓迎している。挨拶をしても返事は小さく、目線はパソコンのディスプレイに釘付けだった。

「これ、今日中に処理お願いします」
それだけ言って、彼女はこちらを一瞥もせずに再びキーボードを叩きはじめる。やれやれ、、、こっちは寝癖も直す暇なかったんだけどな。

なぜこんなに恋愛と無縁なのか自問してしまう朝

書類に目を通しながら、ふと思った。もう何年、誰かに「好きです」とも言われてないだろう。いや、言った記憶すら怪しい。元野球部だった頃の情熱は、今や相続登記と抵当権抹消の波に飲まれて久しい。

司法書士は恋なんてしない。いや、する余裕がない。……それとも俺だけ?

今日も無言で申請書が机に積まれていた

書類の中にひときわ整った封筒が混ざっていた。依頼書。相続登記の一件だ。差出人の名前は「田代里美」。聞き覚えのない名だったが、きっちり揃った字と花柄の便箋が印象に残った。

サトウさんがぽつりと呟いた。「この人、恋してますね」

妙に整った依頼書の違和感

確かに、依頼の文面には妙な丁寧さがあった。普段見るような「至急お願いします」や「お忙しいところすみません」ではなく、どこか詩のような、余白の多い文章だった。

登記の依頼というよりも、何かを残したいという気持ちの方が強く感じられた。

字が綺麗すぎる依頼人の署名

署名欄には、楷書体のお手本のような字で「田代里美」と記されていた。だが、それが女性の手によるものとは限らない。いや、むしろこの整いすぎた字には、何かを隠そうとする意志さえ見えた。

文字は人を映す鏡だ。そう教えてくれたのは、かつて一緒に働いていた先輩司法書士だった。

「この人、恋してますね」とサトウさんは言った

「依頼じゃなくて、遺言ですよ。これ」
サトウさんは淡々とそう言いながら、封筒の折り目を指さした。「この折り方、誰かに見られる前提で入れてます。恋文に似てます」

やれやれ、、、司法書士の仕事に恋愛要素なんていらないんだけどな。

失踪した依頼人の行方

その日、依頼人の田代さんに確認の電話を入れたが、通じなかった。調査してみると、彼は数日前から勤務先を辞め、行方をくらませていた。

遺言のような依頼書。恋文のような封筒。そして所在不明の依頼人。やがてこの一件は、ただの登記依頼では済まないと確信に変わった。

午前10時には姿を消していた

隣町のアパートを訪ねたときには、すでに田代さんの部屋はもぬけの殻だった。ポストに新聞が数日分たまっており、管理人曰く「昨日までは確かにいた」とのこと。

だが、誰かが部屋から出ていく様子を見た者はいなかった。怪盗キッドのように、煙の中に消えたようだった。

登記の依頼が「遺言執行」と判明するまで

残された封筒の中に、もう一通、開かれていない便箋があった。そこには、依頼内容とは無関係の、個人的な思い出と感情が記されていた。

「彼女がこの家を手にしてくれるなら、僕の気持ちは報われる」——遺言ではない。ただの片想いの報告書だった。

封筒に残されたひとつの手紙

田代さんが愛していたのは、相手にすら気づかれていない、ひっそりとした恋だった。そしてその恋の対象が、登記の名義変更先となっていた女性だった。

これはもう、恋愛というより「身元保証を超えた何か」だ。

差出人は別人で、宛先もなぜか消されていた

便箋の片隅に、鉛筆で一度書かれた宛名が消されていた。「谷村佳奈子」。田代さんの恋の相手だろう。だが、佳奈子さん本人にはこの手紙は一切渡されていない。

まるで、手紙を出す勇気がないまま、司法書士を使って恋を完結させようとしたようだった。

筆跡から浮かび上がる別の女の影

サトウさんが指摘した。「この字、二人で書いてますね」
確かに、数行だけ字の角度が違っていた。田代さんと、もうひとり。

筆跡鑑定をしたわけでもないが、経験でわかる。これを書かせた相手は、田代さんの恋心を知っていた。そして、それを応援していたのかもしれない。

公証人役場で拾った矛盾

最後の手がかりは、公証人役場で見つかった。「本人確認が取れず、遺言扱いにできない」と返却された申請書が、封も開けずに保管されていた。

つまり、田代さん自身が正式な登記を望んでいたわけではない。気持ちだけを、登記簿に残したかったのだ。

彼は自分のために登記を頼んだのではなかった

彼は、ただ想いを託したかっただけ。法的効力など、最初から求めていなかったのだろう。そんな依頼を、我々司法書士がどこまで扱えるのか——悩ましい。

でも、きっと彼にはこれが「告白」だった。

やれやれ、、、また恋愛絡みか

最後の書類を見終わって、ため息が出た。恋と法務は、交わってはいけない。でも現場ではいつも交錯してしまう。

「今日の昼、弁当買いに行きましょうか?」とサトウさんが言った。珍しい。その言葉だけで少し報われたような気がした。

最後に交わした言葉と申請の行方

田代さんの申請は、結局受理されなかった。理由は単純、「登記原因不明」と「本人所在不明」だ。

だけど、登記簿の片隅にメモとして残した文言はある——「申請目的、意思表示による」。書類の世界では意味をなさない一文。

想いを残すために選んだ手段

それでも私は、それを抹消しなかった。いつか佳奈子さんがこの書類を見る日が来たら、何か感じ取ってくれるかもしれない。

恋も登記も、残ることに意味があるのかもしれないな。

司法書士にできる片想いの証明とは

サザエさんの世界では、恋愛はどこまでも曖昧で優しい。でも、現実は少しだけ冷たくて、切ない。それでも、我々の仕事が誰かの気持ちを少しでも残せるなら——。

今日もまた、片想いの申請書を受け取るかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓