朝一番の電話で始まった、嫌な予感
その日はいつもより早く事務所に着いて、コーヒーを一口飲んだところだった。電話が鳴り、画面に見慣れた依頼者の名前が表示されたとき、なんとなく胸騒ぎがした。「先生、ちょっといいですか…例の登記識別情報の紙が、どうしても見つからないんです」――その瞬間、コーヒーの味が一気に消えた。これまで何百件と案件を処理してきたが、まさかこのタイミングでそれを失くすとは。電話口の依頼者の声は焦りを隠せず、こちらの背中には一気に冷たい汗が流れた。
依頼者の焦った声がすべてを物語っていた
「何度も家の中を探したんですが、どうしても見つからなくて…」という言葉に、こちらの頭の中も真っ白になる。決済は明日。しかも金融機関も絡んでいる案件だ。これが単なる書類の遅れで済む話ではないことは明らかだった。依頼者に「とにかく一度落ち着いて、もう一度家中を探してみてください」と伝えつつ、自分自身も「何かできることはないか」と必死に考え始めた。まさに、体の中の血が一気に引いた感覚だった。
「先生、あの紙、見当たらないんです」
登記識別情報――その一枚の紙が、登記手続きの鍵を握っている。今でも「紙」での管理が基本で、たった一枚失くすだけで大きな影響を及ぼす。これまでも「なくしそうになった」とか「間違えて捨てたかも」という相談はあったが、いざ本当に失くされたとなると、こちらの責任もゼロとは言いきれない。少なくとも、「預かっていればよかった」と思わざるを得なかった。
まさかの「登記識別情報がない」という事実
確認を取るたびに、「やっぱり見つかりませんでした」と返ってくる言葉に、心がズーンと重く沈んでいく。何より辛いのは、依頼者が自分を責めている様子だ。「自分のせいでこんなことになって申し訳ない」と言うたびに、こちらも苦しくなる。責任の所在よりも、「信頼」が崩れつつあることの方が怖かった。
「保管は大丈夫です」と言った自分を責めた
今回の案件では、登記識別情報は依頼者が自宅で保管していた。「紛失のリスクがあるので、できればこちらでお預かりしましょうか?」と声をかけるべきだったのに、「じゃあ大丈夫ですね」とそのままにしてしまった自分がいた。忙しさにかまけて、リスクの芽を見落としていたのだ。
実はどこかでモヤモヤしていた心の奥
どんなに「信用してます」と言われても、どこかで「本当に大丈夫か?」と不安を感じることはある。でも、それを口に出すと「先生、信用してないんですか?」と嫌な空気になるのが怖くて、黙ってしまった。そしてその結果がこれ。結局、自分の判断ミスを痛感する羽目になった。
安心して任せられる人間なんて、いないのかも
依頼者を責めるつもりはない。むしろ、自分だって何かしらの書類を失くしたことくらいある。でも、仕事となると話は別。誰かに任せる以上、任せた責任は残る。そう考えると、安心して任せられる人間なんて、誰一人いないのかもしれない――そんな極端な思考に陥ってしまうのも、こういうときの特徴だ。
責任感と無力感の狭間でゆれる自分
「なんでこんなことになったんだろう」と自問自答しながらも、結局自分ではどうしようもない状況に苛立ちだけが募る。司法書士としての責任感と、いまこの瞬間にできることのなさ。両者のギャップに心が削られていく。事務所でただPCの前に座っているだけの時間が、地獄のように感じられた。
手続きのストップと、予定の全崩壊
午後の決済に向けて段取りを組んでいたが、識別情報の紛失が発覚したことで、すべてが一時停止となった。関係者に連絡を取り、事情を説明し、理解を得るための言葉を探す――それだけで精一杯だった。
午後の決済は白紙、依頼者にも説明が必要に
金融機関や仲介業者とのやり取りはいつも神経を使うが、今回はその比ではなかった。「依頼者の不注意で…」などと責任を転嫁するわけにもいかず、「こちらで再発行の手続きをします」と頭を下げるしかなかった。自分の中でのプライドも、ひとつ削られた気がした。
「こっちのせいじゃない」と言い訳してる自分
ふと気づけば、心の中で「いや、これはこっちの責任じゃない」と何度も言い訳している自分がいた。でも、それを口に出せば依頼者はますます不安になる。だから口には出さない。でも、苦しい。正義と本音がぶつかり合って、心がすり減っていく。
冷静を装うも、手は震えていた
「大丈夫です、手続きはこちらで進めますから」と言いながら、実は手が震えていた。電話の後、こっそり鏡を見たら、顔色がすごく悪かった。こんなときに限って、誰も話しかけてこない。誰かに弱音を吐きたかったが、それができる相手もいなかった。
識別情報再発行の申請――わかってても気が重い
登記識別情報の再発行は手続き上は可能だし、手順も頭では理解している。でも、実際にそれをやるとなると、精神的な重さがのしかかる。「これは緊急事態です」と役所に話す自分が情けなく思えるのだ。
制度上の手続きより、依頼者の信用が痛い
どんなに制度が整っていても、人の信頼は一度失えば戻らない。今回も「先生、手続きありがとうございました」とは言われたが、どこかよそよそしさが残った気がする。それが妙に胸に残った。「ちゃんとできた」より、「ちゃんと守れなかった」が強く残るのだ。
「先生に任せたのに」の一言が、地味に効く
後日、雑談の中で「先生に全部お任せすればよかった」と言われた。何気ない一言かもしれないが、それが胸にグサリと刺さった。「あの時、お預かりしていれば…」という後悔が、何度も頭をよぎる。わかっているのに、避けられなかった。
再発行後の対応と、信頼回復の壁
無事に再発行できたが、それで終わりではなかった。依頼者との距離感、周囲への説明、そして自分のメンタル。すべてが疲弊していた。「次からはこうしよう」と反省するけど、正直、また同じことが起きたら耐えられる気がしない。司法書士って、こういう小さなことでメンタル削られる仕事だと思う。
ひとつの書類に依存する業務リスクを痛感
この一件で、一枚の紙にここまで左右される仕事の脆さを改めて感じた。電子化が進んでいるとはいえ、現場ではまだまだ紙が主役。無くしたら終わり。そんなリスクといつも隣り合わせだ。
電子化が進んでも、紙はまだ強い
電子申請も進んでいるが、それでも原本提出が必要な場面も多い。登記識別情報も、電子化の波にはまだ完全には乗れていない。司法書士にとって、紙は「命綱」みたいなもの。なくした瞬間、すべてが止まる。そう考えると、紙の一枚の重みを改めて思い知らされた。
「失くすかも」という前提で動くことの重要性
これからは「失くすかもしれない」と常に考えておくしかない。依頼者が保管する場合でも、こちらから「コピーを預からせてください」「もしものときはこうします」と丁寧に伝えるべきだ。慎重すぎるくらいでちょうどいい。経験からしか学べないこともある。
今後の保管体制、見直すしかないと決めた日
結局、この一件をきっかけに、事務所の書類管理体制を全面的に見直すことにした。預かり方、説明の仕方、再発行時の手順まで。忙しいからといって後回しにせず、最初から備えておく。あの日の自分を思い出すたびに、あの冷や汗を思い出す。その記憶だけは、何があっても忘れたくない。