午前九時の来訪者
雨上がりの月曜、事務所のドアが軋む音と共にひとりの男が現れた。年の頃は三十半ば、無精髭にコート姿。目はどこか怯えたようで、受付に座るサトウさんを一瞬だけ見てから、私の机の前に腰を下ろした。
「司法書士の先生、戸籍のことで相談がありまして」
名乗らぬその男の第一声は、予想よりずっと控えめだった。
名乗らぬ依頼人
「お名前を伺っても?」と私が尋ねると、男は口ごもったまま視線を外す。怪しい。だが、こういう相手は無理に聞き出さぬ方がいい。話し出せば自ずとボロが出る。
「昔の戸籍を調べたいんです。昭和初期、ある地域にあったはずの本籍地なんですが、今は跡形もないようで」
なるほど。話の筋だけで言えば、仕事として成立しないわけではない。
相談内容は「本籍」
男が示した地名は、今の市町村合併の前の前。つまり戦前の村だ。市役所のデータベースには存在せず、かつて災害で焼けた地域らしい。
「その本籍地に誰かの名前を見つけたい?」と私が聞くと、男は「そういうことです」とだけ答えた。だが、彼の口調は、まるで自分の過去を探しているかのようだった。
サトウさんの違和感
その日の午後、サトウさんがコーヒーを淹れながらぽつりと言った。
「あの人、たぶん偽名ですよ。話し方が不自然でした。イントネーションが微妙にずれてた気がします」
さすがだなと思いつつも、根拠を問えば「女の勘です」と一蹴された。
冷たい視線の奥に
気にしていないふりをしながら、私はあの男が残したメモを見返していた。汚れた字で書かれた地名と、「一〇三番地 ムラの端の竹林」とだけ記されたメモ。
その書き方に、なぜか私は古い探偵漫画の導入部を思い出した。「名探偵コ○ン」でもよくあった。謎めいたメッセージ、封印された過去、そして消えた村人。
見え隠れする偽名の影
どうもこの依頼は、単なる登記調査とは違う。人を探しているのか?それとも身を隠そうとしているのか?戸籍を探す理由としては後者が濃厚だ。
「本籍」とは、建前上の居場所。だが人は、心の本籍を簡単には変えられない。そう、私は知っている。私自身が、過去にしがみついているから。
役所にない本籍地
役所の戸籍課で調べても、その地番は存在しなかった。災害で焼けた村の記録は、手書きの書庫にしかないらしい。面倒だが、これも仕事のうちだ。
私は書庫の棚をひっくり返し、ようやく見つけた「大正期住民記録簿」の一冊を開いた。そこには、あの番地に確かに一つの姓が記されていた。
謄本は存在しない
記録は半焼けで、完全ではない。だが、ページの隅に「死亡届未提出」の朱書きが残っていた。村が消えたと同時に、その一家も消えたのだ。
依頼人は、きっとその子孫だろう。つまり「消えた村」の唯一の生き残りか。
戸籍を追う司法書士
「やれやれ、、、」と思わず口に出た。まるでキャッツアイのように過去を盗みに来た亡霊か、ルパン三世のように変装した誰かか。
いずれにせよ、謎は深まるばかりだ。
昔の新聞記事との一致
事務所に戻ると、私は地方新聞の縮刷版を探した。昭和二十二年、山林火災の記事に、件の村の消失と、未発見者五名の名前が掲載されていた。
その中に、依頼人と同じ姓を持つ子供がいた。名前も一致している。ただし、年齢が合わない。今の依頼人がその人物なら、現在は九十歳を超えるはずだ。
火事で消えた村
では依頼人は誰なのか。名を借りたのか、それとも?
新聞の一隅に、「父は村から逃げ延び、後に改名」とある。やはり、家族は生き延びた。ならばあの男は、二代目、あるいは三代目ということになる。
サザエさんのように見えて闇深い日常
見た目は穏やかな人だったが、内面は複雑だったのだろう。人は笑っていても、心に焼け跡を残しているものだ。
私のように、愚痴をこぼしながら、誰にも言えない過去を抱えて生きている。そんなものだ。
本籍地が示す別人の過去
翌日、私は男に調査結果を報告した。「この地に、かつて〇〇という家があり、火災により消失した記録があります。あなたの姓とも一致します」
男はふっと力を抜いた。「ようやく、父の過去が見えました。彼が死ぬ前に、本当のルーツを知りたかったんです」
転籍と改名のトリック
「じゃあ、あなたが探していたのは本籍じゃなくて、心の所在だったわけですね」
男はうなずいた。「自分が何者か、ずっとわからなかった。今日、ようやくわかった気がします」
人は、本当に帰るべき場所を、役所の書類では見つけられない。
やれやれ、、、また面倒な話だ
私は書類を閉じて、椅子の背にもたれた。こういう話には慣れているはずなのに、毎度ちょっとだけ疲れる。
依頼人が去った後、サトウさんが言った。「今回は、ちょっといい話でしたね」
私は苦笑いを浮かべながら、次の依頼人の資料を手に取った。
真実の住所は記憶の中に
本籍地というものが、ただの形式であることは重々承知している。それでも、そこにこだわる人がいるのは、やはり心がそこにあるからだ。
この事件で私もまた、少しだけ自分の過去に触れた気がした。登記簿や戸籍にない記憶、それが人を動かす。
「心の本籍」を問う理由
誰かのためでなく、自分のために本当のルーツを知りたい。それは贅沢でも無駄でもない。
戸籍に書かれない「心の本籍地」は、きっと誰の中にもある。
依頼人の動機は贖罪
彼は父の過去を背負って、きっとこれから何かを変えようとしているのだろう。
司法書士の私は、それに関わっただけ。ただ、それだけで、今回は十分だった。
静かに閉じる書類ファイル
夕方、静かにファイルを閉じて、私はサトウさんと目を合わせた。
「今日は何食べます?」と聞かれて、「カップ麺かな」と答えた私に、塩対応の彼女が「でしょうね」と返す。
サトウさんのひとことが沁みる
「でも、たまには温かいご飯、誰かと食べたほうがいいですよ」
私は笑ってごまかした。登記と違って、人付き合いの調整は難しい。
そして午後の登記が始まる
心の本籍地は見つけられた。だが、それは依頼人の話。
私の本籍は、ここ。この雑多で孤独な司法書士事務所だ。
そしてまた、「やれやれ、、、」とつぶやきながら、次の登記簿を開いた。