朝の訪問者と焼きたての苦情
朝、まだコーヒーも淹れていないうちにインターホンが鳴った。扉の向こうには、隣に住んでいるという初老の男が立っていた。普段ほとんど顔を合わせることがなかったその男が、手に書類を抱えて俺の事務所を訪ねてきたのだ。
「これ、誰かが勝手にポストに入れてきたんです。何かの書類のようなんですが……印鑑が押されていないんですよ」
不審な書類に、印鑑欄がぽっかり空いていた。その空白に、事件の気配が漂っていた。
登録されていないという事実
「印鑑登録、していないんですか?」と俺が尋ねると、男は小さく頷いた。引っ越してから10年以上になるが、印鑑登録の必要性を感じたことがないという。
だが、この書類には「隣人の承諾印」が必要だと明記されていた。マンションの管理規約に基づく手続きのようだったが、肝心の押印がなければ無効だ。
「もしかして、これって誰かが私のふりをして……」男の言葉に、俺の背筋が少しだけ伸びた。
書類に残された唯一の痕跡
その書類には、筆跡のわずかな痕と、右下にかすれた赤い指跡があった。朱肉ではない、何か別の赤。
まるで、昔サザエさんのカツオがいたずらで父ちゃんの印鑑を拝借して叱られる回を思い出させる。あれも、印が残るかどうかが問題だった。
印を押すとは責任を負うこと。だからこそ、その空欄が妙に不気味に見えた。
サトウさんの塩対応と洞察力
「自分で押せばいいんじゃないですか」とサトウさんは淡々と呟いた。それは皮肉でも、冗談でもない。ただの事実を述べただけのように聞こえた。
「でも……それって、誰かが登録してある印鑑を使ってるってことですよね?」続けてそう言ったサトウさんに、俺はハッとした。
登録されていないはずの隣人の印鑑。それを誰かが“持っている”としたら——
登記情報の不一致
さっそく法務局で調査を進めると、マンションの登記簿に記載された名義と、隣人が名乗っていた氏名に微妙なズレがあった。「田代満」と「田城満」——濁点ひとつの違い。
登記されたのは「田代満」だが、隣人は一貫して「田城満」と名乗っていた。どちらが本当の名前なのか。
「やれやれ、、、こんなのがご近所トラブルの始まりってやつか」ため息が出た。
空き家のはずの部屋にいた男
不動産会社に確認したところ、田代満名義の部屋は10年前から空室のはずだった。管理会社も連絡がつかず、名義変更もされていない。
では、俺が今朝会った男は誰だ?なぜその部屋に住み続け、誰にも疑われなかったのか。
調べれば調べるほど、まるでルパン三世のように素性のつかめない人物像が浮かび上がってくる。
消えた印鑑と誰かのなりすまし
さらに調査を進めると、10年前の所有者が使っていた印鑑が、近くのリサイクルショップで売られていたことが分かった。偶然では済まされない。
旧所有者の印鑑を手に入れ、空き家に住み着いた人物。それが今の隣人だとしたら——
「サトウさん、まさか……なりすましですか?」と俺が聞くと、彼女は「最初からそう言ってましたよね」とだけ言った。
判子を押さなかった理由
男が印鑑を押さなかったのは、押せなかったからだった。正確には、登録されていない印鑑では意味がなかったのだ。
もし押していれば、役所側が偽造に気づく可能性が高かった。だからこそ、あえて空欄にしたのだろう。
その慎重さこそ、逆に違和感を呼び、事件を露呈させる鍵になった。
真犯人は誰か
偽名で暮らしていたのは、かつて所有者の遠縁にあたる人物だった。失職後、身寄りを失い、空室の情報を知って住み着いたという。
不法占拠、そして他人の印鑑を用いた軽微な詐欺未遂。だが、根は深い。人間関係と行政の綻びが生んだ、都市の隙間。
その男は連行される直前、静かにこう呟いた。「やっぱり、あんた本物の先生だよ」
元野球部の勘が冴えた瞬間
俺が彼を疑った決定的な理由は、玄関前に置かれた靴の向きだった。右足が外に開いていた。野球部の癖だ。俺もそうだから、わかった。
けれど、登記上の田代は、剣道部出身と記録にあった。あの靴の置き方だけが、どうしても気になっていたのだ。
まさか、そんな細かいことで——そう思うかもしれないが、推理ものではそういう細部がすべてを繋ぐ。
登記と印鑑と人間の裏側
書類、判子、名前、住まい。どれも「証明」としての役割を担うが、それだけでは人は見えない。
形式に頼りすぎれば、そこにはいつも“抜け穴”ができる。まるで探偵漫画のトリックみたいに。
俺たち司法書士が扱うのは、文字とハンコの世界。でも、その向こうにいる人間を見ることが大事なのだ。
サトウさんのコーヒーは冷たい
一件落着した頃、サトウさんが黙って机にコーヒーを置いた。少しだけ冷めていた。
「今日はちゃんとやりましたね」その一言に、俺は報われたような気がした。
ほんの一瞬だけ、塩対応が緩んだような、そんな気がして——すぐに錯覚だと気づく。
誰にも押されなかった印
帰り際、件の書類を見直した。空白の印欄はそのままだった。誰にも押されなかったそのスペースが、逆に真実を語っているように見えた。
やれやれ、、、今日もまた、静かな町に騒がしい謎が一つ落ちていた。
印のない隣人はもういない。でも、この町のどこかに、また別の空欄が生まれているかもしれない。