見なかったことにできない性格
子どもの頃から「気づいてしまう」性格だった。クラスで誰かが無理して笑っているのを見れば、胸がざわついた。今、司法書士として働くなかでも、それは変わらない。書類の細かなミス、人の目の動き、言葉の揺れ。気づかないフリをしていれば、きっと楽なのに。けれど、自分にはそれができない。黙っていられない性格が、損をすることだってある。だが、それが自分だと、もう諦めている部分もある。
書類のミスも、人の嘘も、見逃せない
業務中、相手の言ったことと、添付された資料の内容が微妙に噛み合っていない。普通なら「まぁ大丈夫か」とスルーできるのかもしれない。でも自分は、つい確認してしまう。そしてやっぱり誤りを見つけてしまう。あるいは、依頼者の説明にどこか嘘が混じっている気配に気づいてしまうこともある。それを指摘するかどうか、毎回迷う。でも気づいてしまった以上、放っておけないのだ。
性格なのか、職業病なのか
事務所を始めて十数年。最初のうちは「プロとして当然」と思っていた。細かく見て、見落とさずに処理すること。それが信用につながると信じていた。でも今では、これはもう性格なのか、それとも職業病なのか、よくわからない。休日にスーパーでレシートの金額ミスを見つけてしまったとき、心底うんざりした。気づかなければ幸せだったかもしれないのに。そんな自分が時々嫌になる。
「気づいてしまう」苦しさとの付き合い方
最近は、無理に「気づくことをやめよう」とは思わなくなった。ただ、その苦しさとどう付き合っていくかを考えるようになった。たとえば、全部を指摘するのではなく、相手が自分で気づけるように導く。あるいは、自分の気持ちを紙に書いて発散する。完璧であることに執着すると疲れるだけだ。そうやって少しずつ、自分の「気づき体質」と折り合いをつけていく日々だ。
指摘すべきか、黙るべきか
ある日、事務員さんが作成した書類に微妙なミスがあった。形式的には問題ないが、読み手によっては誤解を招きかねないような内容だった。指摘すれば、また落ち込ませてしまうかもしれない。でも、指摘しないでいて、あとでトラブルが起きたらどうなるのか。仕事である以上、やはり妥協できない。優しさと責任感の間で揺れる瞬間は、日常の中に何度も訪れる。
事務員さんとの距離感が変わった瞬間
そのときは思い切って伝えた。「ここ、もう少しこうした方がいいと思う」と。少し沈黙があって、彼女はぽつりと「やっぱり見てますね」と笑った。嫌味でも皮肉でもない、少し安心したような声だった。それから、彼女の方から「これ、見ていただけますか」と聞いてくれるようになった。気づくことは、壁になることもあるけど、橋になることもあるのかもしれない。
善意が裏目に出る怖さ
でも、全てがうまくいくわけじゃない。別のスタッフと働いていた時代、些細な指摘が積もり積もって関係が悪化したことがある。「そんなに完璧を求めるなら、自分で全部やってください」と言われてしまったときは、本当に辛かった。こちらに悪気がない分、よけいに苦しかった。善意であっても、それが相手にとってプレッシャーになることがある。難しいものだ。
気づいたときの「責任」が重たい
気づかなければ、抱え込むこともなかったかもしれない。でも気づいてしまった以上、自分の中では「放っておけない」が発動してしまう。そこから説明、対処、場合によっては謝罪や修正が必要になる。司法書士という仕事は、ただ作業をこなせばいいわけじゃない。気づいたときに「どう動くか」が問われる。だからこそ、責任の重さに潰されそうになる日もある。
クライアントの矛盾に気づいてしまったら
あるご高齢の依頼者。遺言書の内容を確認していたとき、明らかに過去の発言と矛盾があった。「この人、本当にこうしたいのかな」と、内心では引っかかりを感じた。でもそれを言葉にするのはリスクもある。「専門家としての越権」になってしまうかもしれない。それでも、慎重に、本人の意向をもう一度確認し直した。結果、やはり本人の意思が揺れていたことが分かり、修正できた。
信頼を損なわずに伝える難しさ
「気づいたことをどう伝えるか」は、仕事の中でも最も神経を使う部分だと思う。責めるのではなく、気づきを共有する。相手に委ねる形で問いかける。声のトーンやタイミング、言葉の選び方。全てが問われる。信頼を損ねれば、その場の仕事だけでなく、今後の依頼にも響く可能性がある。優しさとプロ意識、そのどちらかだけではやっていけないのがこの仕事だ。
結局、自分が背負うしかない現実
最終的に、誰が責任を取るかといえば、やっぱり自分だ。だからこそ、気づかないフリなんてできない。依頼者が知らずに選んだ道であっても、結果が悪ければ「先生が止めてくれたら…」と思われることだってある。そう思うと、ますます神経をすり減らす。でも、それも含めて司法書士という仕事だ。逃げられないから、背負っていくしかない。それが正しいのかは、今も分からないけれど。