趣味を聞かれた瞬間に走る冷や汗
「ご趣味は何ですか?」この何気ない質問に、私は毎回言葉を詰まらせる。まるで面接の一問目のように感じる瞬間だ。司法書士という職業柄、名刺交換やちょっとした会話の流れで聞かれることが多いが、正直に「趣味と言えるものは特にない」と答えると、その場が妙に静まり返る。昔は堂々と「野球です」と言えたのに、今はそんな自信もない。聞かれるたびに、自分には何も残っていないような虚無感に包まれる。
なぜ答えられないのか 自分でもわからない
別に趣味を持たないことが悪いわけじゃない。でも、「自分には何があるんだろう」と思い始めると、答えが見つからなくて苦しくなる。以前は読書やゲームにも手を出していたけれど、今は疲れて帰ってきて、そのまま寝てしまう日々。やらないから趣味にならないし、趣味がないから心が乾く。堂々巡りだ。結局、答えられないことよりも、答えを探そうとしなくなった自分へのがっかり感の方が強いのかもしれない。
昔は野球少年だったのに
中高時代は元気な野球部員だった。日焼けした肌、破れたユニフォーム、汗臭い部室。全部が青春だったはずなのに、いつの間にか「運動なんて無理」と言っている自分がいる。グローブにも触れていないし、バッティングセンターにすら行かなくなった。「忙しいから」と理由をつけて封印してしまった。あの頃の自分が今の自分を見たら、なんて言うだろうか。
「今は何をしてるんですか?」の圧力
「最近は何かハマってることありますか?」と聞かれることも多い。雑談で出るこの質問が、じわじわとプレッシャーになる。「今」を楽しんでいない自分がばれるようで、気まずい。ネット動画をぼーっと見て、コンビニで買った弁当を食べて、仕事のことを考えながら寝る。それが私の「今」。それを趣味とは言えないし、言いたくない。だけど、本当に何もないと言うのも寂しい。
趣味のない人生はダメなのか
「趣味がない=つまらない人間」という風潮がある。実際、そう見られている気がしてしまう。けれど、仕事に忙殺されている人にとって、趣味は贅沢品のようなものだ。心が乾いているのは事実だが、それを埋める余力がないことも多い。趣味を持つには時間だけじゃなく、気力や勇気もいるのだ。
「仕事が趣味」と言うには虚しすぎる
一度だけ「仕事が趣味です」と言ったことがある。お世辞でも相手は「すごいですね」と言ってくれたけど、自分の中では虚しさしかなかった。確かに仕事には真剣に向き合っている。でも、それは生活のためであって、心を踊らせるものではない。言ってしまった自分に「無理しなくていいんだぞ」と声をかけたくなった。
本音を言えば寝ていたいだけ
正直、休日は寝ていたい。誰とも会わず、誰とも話さず、布団の中で過ごすのが一番の幸せ。それを趣味と呼べるなら楽だが、社会的には通用しない気がする。だからつい、「映画とかですかね」と無難な答えを口にしてしまう。見てもいないくせに。寝ていたいことが悪いとは思わないが、それを自信を持って言えないのが情けない。
ネット動画とコンビニ飯が趣味と言えるか
最近のルーティンは、YouTubeを流しながらコンビニ飯を食べること。それが唯一の「楽しみ」になっているのが、我ながら悲しい。昔はもっと本を読んでいたし、カメラにも興味があった。いつの間に、こんな“受け身な楽しみ”しか持てなくなったのだろう。趣味って、能動的な何かだと思っていた。でも、今はそれを始めるエネルギーすらない。
司法書士という仕事に趣味を奪われたかもしれない
この仕事は嫌いじゃない。でも、いつも何かに追われているような感覚がある。書類、締切、電話、突発対応。自分の時間なんてどこにもない。気づけば「終業後」も「休日」も、仕事の延長線上で生きている。それが習慣になりすぎて、趣味に割く時間や心のスペースがどこにも見当たらなくなった。
忙しさが日常を塗りつぶす
「今日は早く終わりそうだ」と思っても、結局なにかしらの連絡や対応に追われて、夜が更ける。そうやって一日が過ぎ、週が過ぎ、月が過ぎる。気づいたら一年が終わっている。それだけで精一杯な日々の中で、趣味なんて育つ余地がない。自分の中で「楽しむ」という感覚がどんどん鈍くなっている気がする。
週末の「暇」すら罪悪感
たまにぽっかり時間が空くと、妙な罪悪感が湧いてくる。「何かやらなきゃいけないんじゃないか」と。せっかくの自由時間に、自分を責めるなんて損な性格だ。元々真面目すぎる性格が災いしているのだろう。心の底では、趣味を楽しめる人に嫉妬しているのかもしれない。
趣味を持つには心の余裕がいる
たぶん、今の自分には心の余白が足りない。何かを楽しむには、少しの余裕が必要だ。でも、今の私はその「余裕」がどこにあるのかすらわからない。趣味を持つには、まずその土台を作ることから始めなければいけない。趣味は「持つ」ものではなく、「育てる」ものなのだと思う。
自分だけじゃないと思いたい
「自分だけがこんなに無趣味なんじゃないか」と感じることがある。でも、同業者と話してみると意外と「わかるわかる」と言われることが多い。それだけで少し救われた気になる。もしかしたら、無理に趣味を見つけることより、そんな風に共感し合える関係があることの方が大事なのかもしれない。
同業者にも聞いてみた「趣味ある?」
先日、仕事終わりに同業者と飲んだ席で、「趣味ある?」と聞いてみた。すると「俺もないよ」と即答された。安心したような、がっかりしたような変な気持ちになった。でも、その言葉が妙にリアルで、変に慰めになった。同じように仕事に忙殺され、疲れて家に帰るだけの毎日を生きている人がここにもいた。
みんなそれなりに誤魔化してる
「登山が趣味」と言っていた同業者も、実際には年に1〜2回しか行けていないらしい。それでも「趣味は登山」と名乗っているのだ。なんだかその図太さが羨ましく思えた。趣味って、もしかしたら頻度じゃなくて「そう言えること」が大事なのかもしれない。自分も何か一つ、言い切ってしまおうかとすら思った。
共通点は「聞かれるのが苦手」だった
一番印象的だったのは、ほとんどの人が「趣味を聞かれるのが苦手」と言っていたこと。気の利いた答えができないし、自分が薄っぺらく思えるから、と。結局、みんな不安やコンプレックスを抱えている。そう思っただけで、少し肩の力が抜けた気がした。
これから趣味を持てるのか
正直、今から趣味を見つけるのは難しい。でも、少しずつでも「楽しむ時間」を持とうとは思っている。趣味を持つことは、自分を大事にすることでもある。自分が何に興味を持てるのか、改めて問い直すところから始めたい。
趣味って見つけに行くもの?
昔は趣味なんて自然にできるものだと思っていた。でも、今は能動的に「探しに行く」ことが必要なんだと思う。試しに本屋に寄ってみる、気になるワークショップを覗いてみる。それだけでも十分な一歩かもしれない。趣味は、「これだ」と決めて始めるより、「ちょっと面白そうかも」で十分だ。
まずは「やってみること」に慣れる
趣味というより「やったことないことをやる」練習から始めようと思った。例えばコーヒーを自分で淹れてみるとか、散歩中に花の名前を調べてみるとか。小さなことでも、自分の世界が少し広がるような気がする。それが趣味になるかどうかは別として、「退屈な自分」との向き合い方にはなる。
興味がなくても少しだけ付き合ってみる
昔の友人に誘われて陶芸体験に行った。興味はなかったけど、土の感触が意外と気持ちよかった。正直、続けたいとまでは思わなかったけど、「なんか悪くなかったな」という気持ちが残った。その程度でもいいのかもしれない。完璧な趣味じゃなくても、ちょっとの心の動きがあれば、それで十分だ。