休日に着る服がなくなった朝、鏡の前で立ち尽くす

休日に着る服がなくなった朝、鏡の前で立ち尽くす

休日の朝、服がないと気づいた瞬間

ある土曜日の朝、いつもより少し遅く目を覚ました私は、ふと「今日は何を着ようか」とクローゼットを開けた。そして、次の瞬間、何とも言えない虚無感に襲われた。そこには着古したTシャツと、くたびれたスウェットしかない。スーツの隙間に申し訳程度にかかっている、色褪せたポロシャツ。…それだけだった。人に会う予定はない。コンビニに行くくらいかもしれない。でも、だからといって「これでいい」と思えない自分がいた。

スーツしか着てない毎日が生んだ副作用

平日は毎日スーツ。司法書士という職業柄、それはもう制服みたいなものだ。考えるまでもなく、朝にはスーツに袖を通す。それが10年、20年と続くと、自分が何を着たいのか、どんな服が好きだったのかすらわからなくなる。「休日用の服」という概念そのものが、自分の中で風化していたことに、その朝はじめて気づかされた。

私服を選ぶセンスが時間とともに消えていく

昔は少しはこだわりがあった。大学時代は古着屋をめぐったし、ブランドに興味があった時期もある。でも、仕事が忙しくなり、婚活も空回りし、休日は寝て過ごすことが多くなっていく中で、私服に気を配ることはなくなった。気づけば「これならいいか」という無難な選択肢ばかりになり、いつの間にか選ぶという行為そのものを放棄していた。

クローゼットの中にあるのは「部屋着」だけ

たまにユニクロやスーパーで「何か買っておくか」と手に取る服も、家で着て終わるものばかり。外に着て出かけるという前提で服を選ばなくなると、服はただの“布”になっていく。クローゼットには機能だけを満たす服が並び、心を動かす服は一枚もない。そんな現実に、休日の朝、改めて直面した。

「休日用の服」を買う余裕も、気力もない

地方で小さな司法書士事務所を運営していると、正直なところ、経済的にも精神的にも余裕がない。スーツ代は経費になるけれど、私服は“自己投資”だなんて言ってる場合じゃない。服屋に行く気力もないし、そもそも行く服屋すらこの街にはほとんどない。

ついで買いできる服屋がない地方の現実

大型モールまで車で片道40分。時間もガソリン代もかかるし、行ったところで「これだ」と思える服があるわけでもない。ましてや試着している自分の姿を鏡で見るのがもうしんどい。結局、休日の買い物すら億劫になり、また家にあるスウェットに袖を通すことになる。

ネット通販は「似合うかどうか」の壁が高すぎる

ネットで買えばいいじゃないか、と思うこともある。でも、モデルのような体型でもなければ、スタイリッシュな部屋でポーズをとるわけでもない。写真と現実のギャップに何度落胆したかわからない。結果、服の選択肢はどんどん狭まり、「今あるものでなんとかする」という妥協に落ち着く。

司法書士という職業の“制服感”

スーツを着ることに何の違和感もなかった。むしろ、制服のように着ていれば、自分を“司法書士っぽく”見せられると思っていた。だが、その裏で“自分自身”がどんどん希薄になっていったのだ。

スーツとネクタイに守られていた「自分」

スーツを着ていれば、「一応ちゃんとしている人」に見える。ネクタイを締めれば、プロらしく振る舞える気がする。つまり、スーツは自分を武装するツールでもあった。けれど、その鎧を脱いだ休日、自分が「何者でもない」ただの中年男性になることに、妙に不安を感じるようになった。

服装で迷わない=自分を考えなくて済む安心感

スーツが“選ばない安心”をくれる反面、自分を見つめ直す機会を失わせる。私服を選ぶのは、自分の好みや気分、季節、状況を考えることだ。でも、その思考の余白すら、日々の忙しさに奪われている。服装を考えることは、自分を考えることだと、休日のたびに痛感する。

服がないことの裏にある「生活のゆとりのなさ」

本当に服がないのではない。選ぶ余裕、気分転換する時間、買い物する元気、それがないのだ。休日のクローゼットは、生活の縮図だった。

仕事に追われて、自分のことは後回し

司法書士は書類と人との間で常に神経を使う。だからこそ、休日は思考停止していたい。それなのに、心は休まらない。自分のことを後回しにする癖がつきすぎて、「自分のために服を買う」ことすら、もはや贅沢に思えてしまう。

休日も結局、事務所の電話が気になってしまう

「休日ぐらい休めばいい」と言われるが、仕事用携帯は手放せない。役所からの連絡、依頼人の急な相談。そういうのが“あるかもしれない”と思うだけで、完全には休めない。だからこそ、「どうせ誰にも会わない」と服も気にしなくなるのだ。

「休みの日らしい顔」を作れない疲れ

人に会う予定がないのに、顔を洗って服を着替える意味があるのか。そんなことを考える自分に、「ああ、だいぶ疲れてるな」と思う。寝癖のまま、着古したパーカーで一日が終わると、何かを取りこぼしたような気分になる。休日が、自分の回復の場ではなく、ただの“消化日”になっている。

見栄えより、“誰にも会わない休日”の服選び

誰にも会わないからこそ、着る服に悩む。誰かの目があれば、それに合わせて選べる。でも、自分のために服を選ぶというのは、案外難しいことだ。

自分の機嫌すら取れない服を選ぶ虚しさ

好きな服を着て、気分よく過ごす。そんな当たり前のことが、今の自分にはできない。着るもの一つで気分が変わるなんて、昔は信じなかったけど、今は痛感する。選ぶ力が失われた今、何を着ても「自分じゃない」ような気がしてしまう。

どんな服を着ても「休日感」が出ない

オフっぽいシャツを着ても、なぜか“仕事の延長”みたいに感じる。せっかくの休日なのに、心が切り替わらない。それはきっと、服の問題だけじゃない。休日にすら心を休ませる余裕のない自分が映っているのだ。

着た瞬間に「疲れたおじさん」が映る現実

鏡の前でシャツを羽織ると、そこにはくたびれた男が立っている。肩は丸くなり、髪は薄くなり、目の下にはくま。服がどうこう以前に、姿勢も表情も“休日の男”ではない。服が似合わないのではなく、余裕が似合わなくなっているのだ。

最後に:服がないなら、心を脱がそう

服がないと嘆く休日。でも、その感情を抱く自分をちゃんと見つめてみると、「そもそも自分って誰だっけ?」という問いにたどり着く。服を選べない日こそ、自分のことを考え直すチャンスなのかもしれない。

誰かの悩みに寄り添う文章を書くという選択肢

そんなことを考えていると、「服がないことすらネタになるかも」と思えてくる。日々のちょっとしたしんどさを書いてみる。司法書士としての愚痴を書く。それが、誰かの共感になるかもしれないし、自分を整える時間にもなる。

服がなくても、共感の声にはなれるかもしれない

休日に着る服がなくても、言葉で誰かの気持ちを包むことはできる。そんなふうに思えた日、少しだけ心が軽くなった。今日の服は相変わらずヨレヨレだけど、この文章を書いている自分は、少しだけシャキッとしている気がする。

「誰にも見せる服がない日」の孤独を言葉にする

それでもいいと思える自分が、どこかにいればいい。鏡の前で立ち尽くした朝のことを、誰かに話すように書き残してみた。休日に着る服がないというだけで、こんなに自分の内側と向き合うことになるなんて、思ってもみなかった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。