朝の来客と印紙の違和感
朝9時ちょうどに、事務所のドアが重々しく開いた。ひとりの中年男性が、やや神妙な面持ちで立っていた。手には黄色く日に焼けた封筒を持っていた。
「あの、亡くなった兄の遺産について相談がありまして……」
定型文のような口上だが、その封筒からは、妙な雰囲気が漂っていた。
封筒の厚みにサトウさんが気づいた
「封筒、二重ですね。なにか隠してる?」と、サトウさんが鋭く目を細めた。
僕にはまったく気づかなかった。やれやれ、、、朝からもうこれか。
男性は一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐに笑って「いえ、昔の書類がいくつかあるだけです」と答えた。
依頼人が語る遺産分割の話
「兄とは、あまり折り合いがよくなかったんです」
依頼人の声には、悲しみよりも焦燥感が混じっていた。
「遺産の分け方について、生前にある程度の合意があったはずでして……」
彼が取り出した合意書の存在が、後に事件の発端となるとは、その時の僕は気づかなかった。
三万円の印紙が貼られていない
契約書の片隅に目をやると、あるはずの収入印紙がない。
金額欄には、三百万円と記されているが、印紙税の貼付が見当たらなかった。
「これ、正式に作ったものですか?」と尋ねると、彼は「ええ、たしかに…」と視線を逸らした。
本当に貼り忘れか それとも
貼り忘れにしては妙だった。消印の痕跡すらない。
さらに、不自然に清潔な紙面が、まるで“最近”作られたかのようだった。
「この契約書、日付は昨年ですよね? でも紙が新しすぎます」
サトウさんが、冷たい声で言った。
過去の書類と見比べるサトウさん
サトウさんは、棚の奥から同時期に作られた別の契約書を取り出し、並べた。
なるほど、確かに色が違う。
「この紙、文房具屋の“ふくしま屋”の特注用紙ですね。今年3月からのロットですよ」
思わず僕は唸った。彼女の観察眼、恐るべし。
亡き兄と残された契約書
亡くなった兄と生前に交わしたという契約書。だが、その契約書が本当に兄の意思だったのか?
どうにもひっかかる。
「兄が契約に応じた証拠はあるんですか?」
問い詰めると、依頼人は「兄から電話で了承を得た」とだけ答えた。
誰が作ったのか不明な合意書
合意書には兄の署名がある。だが、それが本当に兄の字かどうか、判断がつかない。
「これは……スキャンして貼った可能性もありますね」
僕がそう言うと、依頼人の手が震えた。
筆跡と日付の整合性
筆跡鑑定はできないが、日付の整合性ならこちらにも手がある。
「この筆記具、ジェットストリーム0.38mmですね」
「それが?」
「この型番、今年の新製品ですよ」
依頼人の顔色が、青くなった。
やれやれ、、、また遺産か
遺産のトラブルは、いつも同じだ。金額に関係なく、人は争う。
「相続って、サザエさんの世界じゃ、波平さんが“皆で仲良くしなさい”で終わるのに…」
ぼやく僕に、サトウさんが「現実はバブーじゃ済みませんから」と冷たく言った。
いつものごとく揉める兄弟たち
契約書の件が露呈すると、依頼人の弟と姉が怒鳴り込んできた。
「兄貴がこんなことをするわけがない!」
サトウさんが用意したコピーを見て、皆が言葉を失った。
相続放棄と贈与のすれ違い
兄は生前、弟に対して相続を放棄させたが、それは単に贈与扱いとして整理したかっただけだった。
だが、合意書はそれを逆手にとって作られた虚構だった。
収入印紙が語るもうひとつの真実
本物の合意書ならば、必ず三万円の印紙が必要なはずだった。
それがないという事実が、真実をあぶり出した。
「税金をケチったことが、全てを暴いたわけです」
皮肉な話だが、真相はいつも足元に落ちている。
貼っていないのは怠慢か計画か
サトウさんはこう言った。「普通、うっかりなら印紙だけ忘れます。でもこの書類は、それすら想定して作られてる」
つまり、怠慢じゃなく計画的偽造。動機は、自分に有利な遺産の配分。
過去に申告された金額の矛盾
さらに調べると、兄が税務署に申告していた金額と、契約書に記された金額が一致しない。
「三百万円なんて、もともと存在しない“配分”だったんですよ」
それが決定打だった。
サトウさんの一言で流れが変わる
「司法書士さん、これ、警察に渡しますよね?」
その一言で依頼人は完全に崩れ落ちた。
「すみません、兄の意思とは違ったんです……」
声が震えていた。
「貼ってない理由、あるんですよ」
サトウさんの目が鋭く光る。「貼ってないのは、“証拠になるから”じゃないですか?」
誰もが静かになった。
言葉の重みが、その場を支配した。
会話記録が映し出す動機
スマホに残っていた録音。そこには、「契約書を作った」と話す依頼人と、否定する兄の声が記録されていた。
動機は、兄の死後に生じた“あわよくば”だった。
全ては、その印紙が語っていた。
暴かれた動機と静かな謝罪
依頼人は、正式に謝罪文を提出し、兄の意志に沿った形での遺産分割が進められた。
「紙一枚で人生が変わるんですね」
そう呟いたときの彼の顔が、妙に静かだったのが印象的だった。
すべてを知っていたもう一人の相続人
実は、姉だけが最初からすべてを知っていた。
「あの子、昔からズルする時は目を合わせなかったんです」
それでも告発しなかったのは、家族だからだという。
家族という言葉が、こんなにも重たいとは。
裁判所に提出される新しい証言
僕たちは、すべての資料を整えて家庭裁判所へ提出した。
「こういうの、探偵の仕事じゃないのにね」と言うと、
「ルパンの次元だって、時には帳簿を見るでしょ」とサトウさん。
そして、また静かな日常へ
事件は解決し、依頼人も、僕らも、それぞれの場所へ戻った。
やれやれ、、、また一日が終わる。明日は登記の締切が山ほどある。
それでも、誰かの“嘘の値段”を正せたのなら、まあ、よしとしようか。