一日の終わりにやってくる静かな反省会
夜、事務所から帰ってきて風呂に入って、やっと布団に入ったと思ったら、頭の中で一日を巻き戻す癖がある。誰に頼まれたわけでもない、完全に自主開催の「反省会」だ。クライアントとのやり取り、電話応対、書類の確認…。ひとつひとつ脳内で再生され、無事に終わったはずの案件にまで「もしかしてあれでよかったのか」と疑念が浮かぶ。せっかく疲れて眠りたいのに、心はなぜか活性化していく。これが司法書士という仕事の性なのか、それともただの心配性なのか。
依頼は無事終わったのに不安が消えない
たとえば今日、登記の完了報告をクライアントにメールした。返ってきたのは「ありがとうございます。またお願いします」という文面。それだけで充分なのに、なぜか「本当は何か不満があるのでは」と勘ぐってしまう。しかもその確認を明日すればいいのに、なぜか今この時間に考え始めてしまう。たまに夜中にメールを打ちかけて、思いとどまる。あれは完全に自分の不安との戦いだ。終わった案件を、終わったと信じられないのは、性格か職業病か。
書類に不備はなかったかと何度も頭をよぎる
紙を提出したあとに感じる「あれ、あの記載欄、ちゃんと埋まってたっけ…?」という不安。もちろん何重にも確認しているし、チェックリストにもチェックを入れた。でも寝る前になると、どこかの記憶が曖昧になってきて、「いや、漏れてたかも」という妄想が止まらなくなる。翌朝になってから再確認して「問題なし」とわかっても、その時間を返してほしいと思う。だがこれが“責任を負う”という仕事なのだとも思う。
ミスがあったらと想像して勝手に胃が痛くなる
もしその書類に不備があったら…と、最悪のシナリオを想像する。クライアントに迷惑がかかる、信頼を失う、ネットで叩かれる(そんな知名度ないけど)…など、起きてもいない未来を頭の中でシミュレーションしてしまう。胃が痛くなる理由の7割くらいは、実害ではなく「想像の不安」から来ている気がする。けれど、こうやって心配している限り、大きなミスを防げているのかもしれない。そう思わなきゃやってられない。
あの時ああすればよかったの無限ループ
一日の振り返りだけでなく、もっと昔の出来事まで掘り起こしてしまう夜もある。司法書士になると決めた日、事務所を独立したとき、あの時別の道を選んでいたらどうなっていたか…。現実には何も変わらないのに、頭の中では“ifの世界”が何度も展開される。こういう時間って、眠りを遠ざけるくせに、何かを生み出すわけでもない。でも、なぜか毎晩のように再放送される。
電話一本に含まれた言葉をずっと引きずる
「今日はありがとうございました」と言われた中に、少しだけ冷たさが混じっていた気がする。たぶん気のせいだ。けれど「こちらこそ、失礼がなかったか」と何度も反芻してしまう。電話って、表情も空気感もわからないから、些細な言葉のトーンで気になってしまう。思い切って翌日聞き直すと、「全然そんなつもりなかったですよ」と返されて、ようやく安心する。でもその安心を得るまでに、3時間は寝不足になっている。
対応の仕方で信頼を失った気がする夜
忙しいときに限って、急ぎの連絡が来る。そんな時に素っ気ない返事をしてしまったことがある。あの一言で「感じ悪い人」と思われたんじゃないか、とずっと気になる。その場では業務を回すので精一杯でも、夜になると自分の態度を振り返って後悔する。クライアントとの関係は仕事以上の信頼が大事だとわかっているのに、どうしても完璧には振る舞えない。そんな自分を責める時間が、なぜか布団の中で始まってしまう。
自分を責める時間だけは無限にある
業務中はタスクに追われているから、余計なことを考える暇はない。けれど、静かになった夜には、自分に向き合う時間だけがぽっかり空く。そして、誰にも見せない“自己ダメ出しタイム”が始まる。「あれもダメ」「これも至らなかった」と、自分を責めるための言葉はなぜこんなに豊富に出てくるのか。優しくなるのは他人に対してばかりで、自分にはとことん厳しい。独立して自由になったはずなのに、心はむしろ不自由になってる気がする。
誰かと比べても仕方ないのに
わかっている、比べても意味がないことくらい。けれど、夜にSNSを開くと、司法書士仲間や知人が「○○登壇しました!」「顧問先○件目!」などとキラキラして見えてしまう。自分がやっていることに意味があると信じたいのに、やっぱり心がざわつくのだ。寝る前の自分は、特に弱い。日中なら気にしないことも、暗い部屋では何倍にも膨れ上がって見えてしまう。
同期の活躍をSNSで見て落ち込む
同期のあいつは、都内で事務所を拡大中らしい。職員も3人雇って、セミナーにも呼ばれている。自分はといえば、田舎の一人事務所で、毎月ギリギリの数字とにらめっこ。比べたって意味がないと何度も言い聞かせるけど、「もし東京にいたら、俺もそうなっていたのか」なんて妄想が止まらない。だけど、あの生活に自分が本当に耐えられるかといえば、それもまた疑問だ。人には人の戦い方があるはずなのに、心は簡単には納得してくれない。
地方という場所に自分を閉じ込めていないか
たまに「都会で勝負すればよかったのか」と思うことがある。実際、こっちは選択肢も少ないし、営業も難しい。でも、地方でやると決めたのは自分だし、この場所にはこの場所のやりがいもある。地元の人たちに必要とされること、それ自体が誇りのはずなのに、時々それを忘れてしまう。誰も責めていないのに、自分で自分を閉じ込めている感覚がある。
独身のままこのまま終わっていくのかという不安
ふと、未来を考えてしまう。50代になったら?60代は?誰もいない家に帰る毎日。たまに冷蔵庫が空っぽの夜、思う。「このままでいいのか?」と。でも出会いなんてないし、合コンもないし、そもそも需要がある気もしない。そうやって未来の孤独まで先取りして、寝れなくなっていく。いっそ眠ってしまえばいいのに、そういう時に限って目が冴えるのはなぜなんだろう。
布団の中はなぜこんなにも思考が騒がしいのか
眠る場所であるはずの布団の中は、なぜか思考の特設会場になっている。今日の反省から始まり、過去の後悔、未来の不安へと話題は尽きない。思考はまるで、深夜のテレビ番組のように止まらず垂れ流される。疲れているはずなのに、なぜこんなに目が冴えるのか…。まるで誰かに「お前、今日もちゃんと考えたか?」と問い詰められている気さえする。
眠気よりも後悔のほうが強くなる瞬間
普通なら、疲れたら眠る。それなのに司法書士という仕事をしてからというもの、眠気よりも「考えたい」という気持ちの方が上回ることがある。「あの契約書、あの助言、あれでよかったか?」と、終わったことを何度も検証する。その時間に答えなんて出ないことも多いのに、やめられない。まるで自分の正当性を自分で裁判にかけてるみたいだ。しかも、控訴審まである。
今日の自分を許して眠る練習
そんな中、最近少しだけ実践しているのが「自分に一言かけて寝る」こと。「今日もよくやった」「これでいい」「また明日やればいい」――どれも簡単な言葉だけど、意外と効果がある。誰かに褒められるより、自分が自分を労わることの方が大事なのかもしれない。日々の中で一番厳しいのが自分自身だと気づいたからこそ、少しでも心を緩めてやるようにしている。
考えすぎる癖と共に生きていく覚悟
きっとこの癖は直らない。寝る前に頭が働き出すのは、もう性格だ。でも、それを無理に消そうとするより、「ああ、また始まったな」と受け入れる方が楽だと気づいた。考えすぎる自分も、気にしすぎる自分も、全部ひっくるめて今の自分だ。少しずつ、うまく付き合っていくしかない。たとえ眠れなくても、明日は来る。そして、また新しい一日が始まる。