メールの返信がない朝に限って、気持ちがざわつく
朝、机に向かってパソコンを開く。コーヒーの香りとともに始まるいつもの日常。だけど、送ったメールに返信がないことに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮むような感覚になる。仕事上の連絡だとわかっていても、「まだ返ってこない」というだけで、心がざわざわしてしまう。特に、それが自分にとって少しでも重要な案件だったり、微妙なニュアンスが含まれていたりすると、もうダメだ。相手がどう受け取ったのか、そればかりを考えてしまって、他のことが手につかない。こんな朝は一日中、気持ちが上の空になることが多い。
「もしかして何かまずいこと言ったかも」が頭をよぎる
返信が来ない理由なんて、いくらでもある。忙しいのかもしれないし、ただ見落としているだけかもしれない。それは理屈では理解している。でも、「何かまずいこと書いちゃったかな」とか、「やっぱり言い回しがキツかったかな」と、勝手に自分の文章を何度も見返してしまう。司法書士という仕事柄、言葉には気を使っているつもりだけど、それでも不安になると、どんな言葉も「失礼だったのではないか」と思えてくる。自分の中の小さな疑念が、どんどん膨らんでいく。
仕事上の確認メールなのに、感情が揺さぶられる理由
ただの業務連絡のはずなのに、なぜこんなに気になるのか。これは単に「返信が欲しい」というだけじゃない。相手にきちんと伝わったか、自分が変に思われていないかという“確認欲”が根底にあるような気がする。地方で一人でやっていると、誰かに「それで合ってますよ」と言ってもらえる機会が少ない。だからこそ、ひとつひとつの返信が、自分の存在を肯定してくれるような、そんな気さえしてくる。
返信が遅いだけで、自分の価値が揺らぐような気がする
こんなに小さなことで心が揺れるのは、自分に自信がないからなのかもしれない。地方で事務所を構え、ひとりと一人で黙々とやっていると、仕事の成果や評価が「返信」など目に見えるリアクションに偏ってしまうことがある。特に、人付き合いが苦手で、恋愛とも縁遠く、誰かと日常的にやり取りする機会が少ない僕のような人間にとっては、1通の返信がその日の浮き沈みを決めてしまうほど、重たい意味を持ってしまう。
地方の司法書士は“忘れられがち”という被害妄想
大都市の大きな事務所と違って、地方の司法書士事務所は、存在感も地味だし、取引先も少ない。つい、「自分はあまり重要視されてないのでは」と思ってしまう。被害妄想だと分かっていても、「忙しくて後回しにされてるんだろうな」とか、「もう他の事務所に乗り換えられたのかも」といった考えが頭をよぎる。特に連絡が滞っているときには、その不安が膨らんでどうしようもない。
ついスマホを何度も見てしまう、情けない習性
本当に嫌になる。パソコンにメール通知がないと、スマホで確認して、またパソコンを見て、何も来てないのを確認して…というループ。そんなことしても変わらないって、頭ではわかってるのに、やってしまう。着信音を空耳で聞いたり、振動した気がしたりしてスマホを手に取るたび、「またか」と自己嫌悪になる。返信が来ない、ただそれだけのことで、ここまで気持ちが振り回される自分が情けない。
「急ぎません」と言ったはずなのに、心は急いている
「お忙しいところ恐れ入りますが、お手すきの際にご返信いただければ幸いです」…そんなテンプレのような文言を書いて、自分で「急ぎませんよ」と言ったくせに、実は内心では「今すぐ返して」と思っていたりする。この自己矛盾が、さらに自分を苦しめる。待つのが苦手な性格なんだと思うけれど、それにしても自分の気持ちの小ささに嫌気がさす瞬間でもある。
本当に急がなくていい用件なんてあるのか問題
冷静になって考えれば、「急ぎではありません」と言ったことは嘘ではない。けれど、“気持ち”は別だ。たとえ急を要さない書類確認でも、「返ってくれば次の作業に移れる」「気持ちがスッキリする」といった心理的な急ぎがある。結局、業務における“効率”ではなく、“感情”が急かしているのだ。だからこそ、「急ぎません」と自分で言っておきながら、その言葉に裏切られる。
返信を待つ時間に生まれる、余計なストーリー
返信が来ない間、頭の中で相手の状況を勝手に想像してしまう。「もしかして今、僕のメールを見て嫌な気持ちになってる?」「もしかして、他の誰かに相談してる?」…など、勝手に小説が始まる。この“脳内妄想劇場”が一度始まると、なかなか止まらない。
悪い妄想ほど想像力が働いてしまう
なぜか、いい方向に考えられない。「きっと今忙しいだけ」と思えれば楽になるのに、「怒ってるかも」「見捨てられたかも」といった不安ばかりが膨らむ。過去にそういったトラブルを経験したことがあるからなのか、とにかく悪いほう、悪いほうへと考えてしまう癖がついている。
“返信が来ないのは忙しいから”と自分に言い聞かせる虚しさ
そんな自分をなだめるために、「いや、大丈夫。忙しいだけだよ」と繰り返し唱える。でも、内心では「本当か?」と疑ってる。結局、自分で自分を慰めて、また落ち込んで…というループをひたすら繰り返しているのが現実だ。
返信が来たときの安堵感、それはもう感謝の域
そして、やっと返信が届いた瞬間の安心感といったら…。わずか一通のメールで、あれほど揺れていた心がスッと静まる。正直、その返信の内容よりも「来た」という事実だけで、充分救われた気分になる。まるで、「あなたは無視されてませんよ」と言われたような、そんな感覚。
「ああ、嫌われてなかった」と思う瞬間
返信を見て、「ああ、普通だ」と思う。それだけで、安心する。「失礼なことは言ってなかった」と胸をなでおろす。この確認作業のために、自分はあれだけ苦しんでいたのかと思うと、少し情けなくもあるけれど、正直、嬉しい。
返信の文章に深読みしてしまう癖
返信が来ても、今度はその文章の温度感が気になり出す。「文章が短い」「顔文字がない」「句読点だけ」…そんなことで、また心が揺れる。
「!」が多いと安心、「。」だけだと不安
返信に「よろしくお願いします!」と書かれていたら安心。でも「よろしくお願いします。」とだけ書かれていたら、ちょっとそっけなく感じてしまう。もう被害妄想の域だと思う。でも、そんな些細なニュアンスの差に、一喜一憂しているのが現実。
誰にも言えない小さな不安こそ、蓄積するとしんどい
「そんなことで悩んでるの?」と言われそうで、なかなか人には話せない。でも、こういう“ちいさな不安”って、蓄積すると心にじわじわ効いてくる。司法書士という仕事は、基本的に孤独だ。だからこそ、こういう共感できる話を発信して、どこかの誰かが「自分だけじゃない」と思えたら、それだけでもちょっと救われる気がする。
同業者の一言で救われることもある
ある日、同じ司法書士の先生とたまたま雑談していたとき、「返信来ないと、地味に不安になりますよね」と言われて、びっくりした。自分だけだと思っていた感情が、実はよくある話だった。その一言だけで、どれだけ気が楽になったことか。
“ただの返信待ち”に思えない、精神のバランス
たかがメール、されどメール。そのやり取りひとつに、心が大きく揺れることもある。人との関係性が希薄になりがちな現代では、なおさら。返信が来ることで救われる人間が、ここにもひとりいるということを、どうか覚えていてほしい。