朝の書類と異常な印影
朝、机の上には昨日とまったく同じ名前の依頼書類が三通積まれていた。しかも、どれもハンコが押されている場所が違う。印影の数も多すぎるように見える。
「サトウさん、これ、依頼人が三人いたんだっけ?」と尋ねたが、返ってきたのは一言。「いえ、一人です」。
まさかの連続登場人物に、ぼくの胃がきゅるきゅると音を立てた。やれやれ、、、朝から胃薬コースだ。
サトウさんの違和感
「この印影、微妙にズレてますね。紙も変わってますし」と、サトウさんがルーペで書類を睨んでいる。
見た目は同じでも、どうも違う“何か”があるらしい。彼女の観察眼に助けられっぱなしだ。
ぼくはその横でお茶をすすりながら、サザエさんの波平が毎回ハンコ押すシーンを思い出していた。たいてい押し間違えて怒られるやつだ。
押しすぎたハンコの謎
三通の書類に共通していたのは、同じ人名と住所、そして同じような押印。ただし、印の位置、色、微妙なかすれ具合が全部異なっていた。
これが故意のものなのか、単なる老眼によるものなのか、それとも何かを隠しているのか。いずれにせよ、尋常じゃない。
「ハンコが喋れたらいいのに」と思わずこぼしたら、サトウさんが「喋ったらシンドウさん、負けますよ」と返してきた。たしかに、、、。
依頼人は三日連続の老人
その依頼人、七十代半ばの男性・大谷さんは、三日連続でやってきていた。そして三日とも、同じ話を繰り返していた。
「登記をね、息子に譲りたいんですわ」と、大谷さんは優しく笑う。しかし記録を見る限り、譲渡内容が毎日変わっていた。
「これは、、、記憶の問題だけでは説明がつかない」と、ぼくの中の江戸川コナンが囁いた。
同じ名前で別々の書類
三日分の書類を並べてみると、息子の名前が少しずつ異なっていた。“ヒロシ”“ヒロキ”“ヒロユキ”。これはまるで、怪盗キッドが名前を偽って変装しているかのようだ。
「ねえ、サトウさん。もしかしてこの三人、兄弟なんじゃないか?」と訊いたら、「三人とも既に亡くなってます」と冷たく返された。
ぞっとした。じゃあこの依頼、いったい誰の意思なんだ。
昭和の香りがする古い印鑑
押されていた印鑑は、古い朱肉の香りがするようなもので、少なくとも二十年以上は使い込まれている様子だった。
それが三通とも違う質感であることに、サトウさんが気づいた。「これ、全部別の印です。しかも、細工されています」。
偽造ハンコ、、、それは登記の世界ではまさに“死のサイン”と呼ばれる禁断の手段だった。
登記所でのすれ違い
ぼくは登記所に確認に行ったが、書類の扱いに妙な食い違いがあった。昨日提出されたはずの登記申請が、既に“補正済”として扱われていたのだ。
「誰が補正したんです?」と訊いても、担当者は口ごもる。「た、たしかそちらの事務所から、、、」
してない。断じてしてない。補正されたはずの書類を前に、ぼくは立ち尽くすしかなかった。
見覚えのない訂正済み申請
訂正された書類には、見覚えのないぼくのハンコが押されていた。いや、押された“ように見える”だけだった。
細かく見ると、朱肉のにじみ方が違う。指紋のように微妙な差がある。まさに“印鑑の偽造”だった。
司法書士を騙る偽者がいる、、、まるでルパンがぼくの顔を被って現れたかのような悪寒が走った。
登記官の妙な態度
登記官の目が泳いでいた。おそらく、裏で何かを見て見ぬふりしているに違いない。
「ちょっと今はお答えできません」と言って逃げるように奥へ消えた。これは普通じゃない。
やれやれ、、、役所もグルかもしれないとなると、司法書士の出る幕じゃなくなるぞ。
事務所に届いた封筒
その日の午後、茶封筒が一通、無言で事務所ポストに入っていた。差出人は不明。開けてみると、納付済みの登録免許税証明と補正申請書が入っていた。
その中には、まるで“全部お膳立てしたからあとは出すだけ”と言わんばかりの一式書類が揃っていた。
「誰かが、、、司法書士のふりして登記を進めてる」――ぼくの背筋が凍った。
無言で置かれた登録免許税の納付書
それは明らかに“手慣れた仕事”だった。だが、ぼくの押印ではない。犯人は、ぼくの存在を知り尽くした誰かだ。
調べていくと、5年前に辞めた元補助者の名前が浮上してきた。彼は一度だけ、ぼくの印影をスキャンしていた。
それは、あのときのちょっとした“うっかり”が招いた過去だった。
サトウさんの独自調査
サトウさんは既に調査に入っていた。某SNSの投稿、暗号化されたPDF、元補助者のメール履歴まで追っていた。
「このPDF、透かしで“SHINDO INK”って入ってましたよ」
やるじゃないか、、、いや、それにしても塩対応のくせに天才すぎる。
ルパン式偽造印影の手口
元補助者は、まるでルパン三世のように巧妙な手口で印影を複製していた。紙の質、スキャン、トレース、朱肉の偽造。
あれはもう“芸術”の域だ。しかし、それが“司法書士業務”に使われるとなると話は別だ。
サトウさんは静かに言った。「芸術でも、犯罪は犯罪です」。その一言に、ぐうの音も出なかった。
そして静かに閉じるファイル
犯人はすでに自首していた。登記官も事情を知っていたが、あえて見逃していたという。老人の願いを“叶えてあげたい”という、人情だった。
書類は全て正式に取り下げられ、登記も無効となった。ぼくは無言でそのファイルを閉じた。
「やれやれ、、、判子一つでここまで大事になるとはな」。本音がこぼれた。
次はどんな依頼が来るのやら
机の隅には、今日も新しい依頼が積まれている。きっとまた、何かが起こるだろう。
けれどもサトウさんがいれば、大丈夫。なんとかなる、、、たぶん。
そう思いながら、ぼくは書類に手を伸ばした。