朝一の裁判所より、自分の心の整理が先だった

朝一の裁判所より、自分の心の整理が先だった

朝一の裁判所より、自分の心の整理が先だった

朝の時間は、何かとバタバタする。特に裁判所の申立や立会がある日は、いつもより30分早く事務所を出るようにしている。書類の確認、交通手段の確保、事務員さんへの伝達事項。そんなルーティンをこなしながらも、今朝の僕は妙に落ち着かなかった。時間は合っている。服装も大丈夫。書類も完璧なはずなのに、心の中だけがぐちゃぐちゃだった。まるで、自分の感情だけがまだ布団の中に取り残されたままのような、そんな感覚だった。

朝、出発前の沈黙がすべてを語っていた

いつもならラジオをつけて、少しでも気持ちを前向きにしようとするのに、その日は無音だった。静けさが逆にうるさくて、無理にでも音を求めてスマホを触るが、通知のない画面が虚しく光るだけ。なんでもないはずの朝なのに、なんだか妙に息が詰まるような感覚に襲われていた。心の整理がついていないまま家を出ると、たいてい何かしらのミスをする。それは経験上わかっているのに、「時間がない」という理由で見て見ぬふりをした。

書類は揃った。でも気持ちはバラバラだった

封筒に入れた書類、印鑑、必要な添付資料まで、物理的な準備は完璧だった。でも気持ちがついていかなかった。昨夜の電話、依頼人の怒気を含んだ声が、まだ頭の中をリピートしていた。「あんな言い方しなくてもよかったんじゃないか」──そんなことを思いながら、結局自分も強く返してしまったことに後悔していた。業務としては問題がない。でも人としてどうだったのか。その問いに、答えを出せずにいた。

スーツに袖を通すだけで精一杯の朝もある

見た目だけは整っている。ジャケットにアイロンをかけ、髪もセットした。けれども、心の中はまるで洗濯物を干し忘れた日のように湿っぽく、だらしなかった。こんな心のままで人と向き合っていいのだろうか。そう自問しながらも、時間だけは待ってくれない。まるで、表面だけを取り繕って前に進むことが“正しい”とでも言わんばかりに。

裁判所への道すがら、頭の中がうるさい

朝の道路は案外スムーズだったのに、心の中は渋滞していた。脳内で過去の出来事がひしめき合い、「あのとき、こう言えばよかった」「あんな顔をされたのは失敗だった」と、自分責めが止まらなかった。こういう日は、どれだけナビが順調でも、目的地に着いた気がしない。車内で何度もため息をつきながら、「何のために頑張ってるんだっけ」と、考えるでもなく考えていた。

手続きよりも気になっていた「昨日の一言」

昨日、依頼人に言われた「先生って冷たいですね」という一言がずっと引っかかっていた。形式通りに説明したつもりだった。でも相手は、もっと“気持ち”を聞いてほしかったのかもしれない。法律や制度の話をする前に、まず「不安なんですよね」と寄り添えばよかった。僕は“正確に伝える”ことばかりに気を取られて、目の前の人間をちゃんと見ていなかったのかもしれない。

依頼人の言葉が心に刺さって抜けなかった

「そんなこと言われても、こっちも忙しいんです」──そう心の中で言い返していた自分がいた。でも本音では、あの一言が痛かった。なんだか“人間としてダメ出し”された気分だったからだ。司法書士という肩書きを外したとき、自分は本当に信頼される人間なんだろうか。そう思ったら、やるせなさが胸に広がっていった。

独り言が増えたのは、誰にも言えない証拠

気づけば、事務所でも車内でも、口をついて出る独り言が増えた。「あー、またか」「疲れたなぁ」──それはまるで、誰かに聞いてほしい心のつぶやきのようだった。愚痴を言う相手がいないと、人は自分自身に愚痴を言い出すのかもしれない。事務員さんには弱音を見せたくないし、同業者の集まりでも本音はなかなか言えない。だから僕は、自分の中にこもってしまう。

愚痴っていい相手がいない日常

たまに「誰かに話を聞いてもらいたい」と思う夜がある。でも、ふとLINEを開いてみても、送れる相手がいない。学生時代の友人とは疎遠、同業者には見栄がある。結局は「まぁいいか」で済ませてしまう。でも、その“まぁいいか”が、積もり積もって心を削っていく。まるで砂時計の砂のように、少しずつ、確実に。

SNSに書くにはちょっと重すぎる心の声

愚痴のつもりでX(旧Twitter)に書きかけては、投稿前に削除する。その繰り返し。読む人の気分を害するかもしれない、後で読み返して自分が嫌になるかもしれない。そんな不安が先に立って、結局何も吐き出せずに一日が終わる。そして翌朝、またもや心の整理ができないまま、次の予定へと追われていく。

予定通りに動ける日ほど、感情は置き去りに

「今日は順調にいったな」と思える日ほど、実は自分の感情を押し込めていただけだったりする。タスクを完璧にこなすことで、自分の心の乱れをごまかしている。それが習慣になると、気づいたときには“何も感じない人間”になっている危険性がある。きっとこれは、仕事ができるふりをして心が壊れていくプロセスなのだと思う。

司法書士は感情を殺す訓練をしてるのか?

理不尽な怒声、無茶な要求、手続きのプレッシャー。その中で感情をいちいち表に出していたら、仕事にならない。だから僕たちは、自然と“感情を殺す訓練”を受けてきたのかもしれない。でも、それは本当に必要だったのだろうか。冷静さと冷淡さは違う。そう思い始めたとき、自分の“在り方”を問い直すようになった。

まるでロボットみたいに判を押す日々

朝から晩まで、書類に目を通し、確認し、ハンコを押す。誰かの人生に関わる重要な仕事なのに、気づけば“作業”になっている自分がいる。機械的に処理することで、ミスを防ぐのは間違っていない。でも、その先に“人としての温度”がなくなっていたら、いったい何のための仕事なんだろう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。