趣味が出てこない日常に気づいた瞬間
「趣味は何ですか?」。その質問は、あまりにもシンプルで、あまりにも答えにくかった。たまたま昼休みに話しかけてきた税理士の先生に、何気なく聞かれただけだった。でも、口が開かなかった。頭の中がぐるぐると回り、「あれ?俺、趣味って…なんだ?」と自分に問い返していた。昔はバイクも好きだったし、映画も見ていた。でも今、それらは「いつかまたやれたら」になっていて、日常からはすっかり消えていたのだ。
たまたま聞かれただけの「趣味は?」が心に刺さる
その税理士さんは悪気もなく、ただ話題の一環で尋ねてきただけだ。こちらも「最近はなかなか忙しくて…」と笑ってごまかした。でも、そのあと一人になったとき、変なざわつきが心に残った。いつのまにか、自分の中から「趣味」と呼べるものがなくなっている。仕事に全力投球するのは悪いことではない。でも、その反動で、自分という人間の輪郭がぼやけていくような不安もある。
昔は好きだったことも、今は記憶の奥底に
高校の頃はラジオ番組にハマって、毎晩カセットに録音していた。大学時代は中古レコード屋を巡るのが楽しみだった。司法書士の勉強を始めてから、そんな趣味たちは「また今度ね」と棚にしまい、そのまま二度と開けなかった引き出しのようになっていた。「忙しいから仕方ない」と自分に言い聞かせる一方で、心のどこかで「もったいなかったな」という声がする。
「無趣味」が与える地味なダメージ
無趣味だからといって死ぬわけじゃない。誰にも迷惑はかけていない。でも、自分の中で何かが静かにすり減っているような感覚は確かにある。何のために働いているのか、休日に何をして過ごせばいいのか、ふとした瞬間に「空っぽ感」に襲われるのだ。
他人と比べて落ち込む自分がいる
SNSでキャンプ写真を投稿している知人や、登山帰りに語る同業者の話を聞いていると、羨ましさよりも「自分だけ何もしていない」という劣等感がわく。それぞれ事情があるし、比べたって仕方ない。でも、どこかで「それくらいの余裕すらないのか」と自分を責めてしまう。しかもそれが、何度も積み重なると意外とダメージになる。
趣味がない=人生の余白がないと気づかされる
あるとき、事務所のカレンダーを見ていて、予定がすべて「仕事関係」で埋まっていることに気づいた。「余白」がまったくないのだ。余白がない人生は、呼吸を忘れたように息苦しい。仕事の予定ばかりのカレンダーに囲まれた部屋の中で、「このままで本当にいいのか?」と問いかける自分がいた。
仕事に埋もれているという自覚
開業して10年。気づけば、朝から晩まで、仕事とその周辺のことしか考えていなかった。趣味の時間は「贅沢」であり「余裕がある人のもの」だと、どこかで線を引いていた。でも、それはただの思い込みだったのかもしれない。
「趣味は仕事です」は言い訳に聞こえる
「趣味は仕事です」と言えば聞こえはいいが、それは心の防衛線だった。実際は、仕事以外に語るものがないのが恥ずかしくて、そう言っていただけだったのだ。かつては「司法書士になれたら自由に生きられる」と思っていたのに、気づけば「自由のない日々」を送っていた。
気づけば休みも仕事の延長線
日曜日の朝も、パソコンを立ち上げ、登記情報の確認をしてしまう。「せっかくだから今のうちに処理しよう」と、いつの間にか仕事が差し込んでくる。こうして、趣味に使えるはずの時間は、するりと仕事に奪われていく。あまりに自然に、あまりに無意識に。
たまの自由時間は、ただ寝るだけ
やっと取れた半日休み。映画でも観ようかとスマホで検索していたのに、気づけばソファでうたた寝していた。心が疲れていると、何かを「楽しもう」という気力すら湧いてこない。そうしてまた、「今日は何もできなかった」と自己嫌悪のループに入ってしまう。
無趣味でも、たしかに生きている
「趣味がないからダメだ」なんてことはない。でも、ほんの少しの「好き」や「楽しい」があったほうが、人は穏やかに生きていける気がする。僕自身、まだ趣味を取り戻せてはいないけれど、それでも「また見つけたい」と思えるようにはなってきた。
趣味がなくても、心は死なない
無趣味であることに、過剰に落ち込む必要はない。生きていれば、日々の中に小さな喜びや発見はある。コンビニの新作スイーツがうまかったり、たまたま見たテレビで笑えたり。それだけでも、「今週もなんとかやっていけそうだ」と思える瞬間がある。
同じように感じている人へ、ひとこと
もしこの記事を読んで、「自分も同じだな」と思った方がいたら、それだけでもう仲間です。無趣味だって、ダメじゃない。趣味が見つからなくても、自分を見失わないように、少しだけ立ち止まってもいい。司法書士という職業は孤独になりがちだけど、僕もどこかで同じように立ち止まっています。