笑顔の裏で、誰にも見せない現実
「いつも笑顔で対応してくれてありがとうございます」――この言葉、嬉しくないわけじゃない。でも、心の奥では「そう見せなきゃいけない」という義務感に縛られている自分がいる。司法書士という立場上、どんなにこちらが疲弊していても、クライアントには安心を与えなければならない。笑顔は仕事の一部。でも、その裏で心がギリギリな日が増えていく。誰にも見せない現実が、どんどん自分を削っていく。
相談対応中は“完璧な人”を演じている
相談の最中、私はまるで舞台役者のように“できる司法書士”を演じている。声のトーン、表情、語尾の丁寧さ…すべて計算された“安心感”を与える演技だ。実際のところ、心の中では「この件、時間が足りないな」「またトラブルになりそうだな」と焦りや不安が渦巻いている。それでも相手には絶対に見せない。見せたら、信頼が崩れる。だからこそ、演じ続けるしかない。
褒められるほど、プレッシャーが重なる
「頼りにしてます」「あなたにお願いしてよかった」――そんな言葉が返ってくると、嬉しさと同時に恐怖が生まれる。「次も期待されている」「失敗できない」というプレッシャーが襲ってくる。かつて、ちょっとした説明不足でクライアントと揉めたことがある。その時の苦い記憶が、今でも頭をよぎる。褒め言葉は、時として呪いにもなるのだ。
こっちの不安は、どこにも出せない
クライアントの前では事務員にも本音はなかなか言えない。弱音を吐けば、「この先生、頼りない」と思われるのが怖い。だから不安や焦りは自分の中で処理するしかない。でも、それが積もり積もってくると、知らないうちに心が擦り減っていく。誰にも言えない、でも抱えてしまう。それが一人経営者のつらさでもある。
優しくしなきゃ…が習慣になってしまった
私は昔から「優しい人だね」と言われることが多かった。確かに、クライアントに対しても事務員に対しても、つい無理してでも優しく対応してしまう癖がある。でも最近、それが“義務”になってしまっていることに気づいた。優しさは本来、自然に出てくるもののはずなのに、今では「そう振る舞わなきゃいけない」という気持ちのほうが強い。自分が自分でなくなっている感覚すらある。
優しさ=自己犠牲になっていないか
ある日、クライアントに無茶なお願いをされた。「土日でも対応してもらえますか?」と。その日は友人との数年ぶりの予定があったけど、「大丈夫です」と答えてしまった自分がいた。断る勇気がなかったわけじゃない。ただ、相手の期待に応えたかった。けれどその夜、自分が情けなくて布団の中でひとり泣いた。これは優しさではなく、ただの自己犠牲だった。
本音を出せる場所が減っていく怖さ
昔は、愚痴を言い合える同業の仲間がいた。でも年々、みんな忙しくなり、連絡も疎遠に。SNSでは「成功してます」アピールばかりが目につき、自分だけが取り残されたような感覚になる。誰かに「しんどい」と言いたいのに、そんな相手がいない。だからこそ、本音を出せる場所が減っていく。ひとりで抱え込む時間が長くなる。その怖さに、気づいている人はどれだけいるだろうか。
一人事務所という孤独と責任のはざまで
一人で事務所を切り盛りするということは、自由もある反面、すべての責任を自分で背負うということ。誰かに判断を委ねることはできない。嬉しいことも、失敗も、全部ひとり。事務員がいても、最終的に責任を取るのは私だ。この“逃げ場のなさ”が、知らぬ間に心にプレッシャーをかけ続けている。
事務員はいても、責任は全部自分に来る
事務員がいてくれるのは本当にありがたい。でも、彼女にミスがあったとしても、それを咎めることはできないし、結局は私が全責任を持つことになる。かつて、登記書類の提出で日付のズレが生じたときも、謝りに行ったのは私だった。外から見れば“チーム”でも、内実は“孤軍奮闘”。その現実を誰かに話したところで、理解されることは少ない。
誰にも頼れず、心が疲弊していく日々
「全部自分でやったほうが早い」と思ってしまう癖がある。だけど、それを続けていくと、気づけば心も体もボロボロになっている。朝起きた瞬間から頭が重く、口を開くのも面倒になる日もある。そんな自分を見せられないから、また無理をする。悪循環が続く。頼れる人がいないのではなく、頼ることができない自分がいるのだ。
休んでも「何もしなかった罪悪感」
久しぶりに半休を取った日、ソファでただ横になっていると、「何かしなきゃ」「この時間ももったいない」と焦りが湧いてきた。普通の人なら「ゆっくり休めて良かったね」と思うのかもしれない。でも私は、休むことすら許せない性格になってしまっている。だからこそ、休んでも罪悪感がついてくる。こんな働き方、本当は間違っているとわかっていても、抜け出せない。
独りで抱え込むクセが抜けない理由
なぜ独りで抱え込むのか――それはきっと、弱さを見せるのが怖いから。昔、上司に相談したとき「それくらい自分で何とかしろ」と突き放されたことがある。それ以来、「助けを求める=甘え」だと思うようになった。気づけば、なんでも一人で解決しようとするクセが染みついていた。そのクセが、今、自分を苦しめているというのに。
それでも、また笑顔で仕事をする理由
それでも私は、明日も笑顔でクライアントと向き合うだろう。なぜか? 優しさは、擦り減ることがあっても、消えるわけではないからだ。そして、誰かの「ありがとう」が、また私を支えてくれるからだ。自分を大切にすることも、誰かのためになる――そう信じて、今日もこの仕事を続けている。
感謝の言葉が、唯一の救いになるとき
ある日、仕事で対応したご年配の方から「本当に、あなたで良かった」と深々と頭を下げられた。その瞬間、不思議と涙が出そうになった。日々の苦労やしんどさが、少しだけ報われた気がした。こういう一言のために、この仕事をしているんだと思える。報酬や制度以上に、人の感情に触れることができる瞬間こそが、何よりの救いだ。
誰かの役に立てる喜びを思い出す瞬間
日々、忙しさに追われていると、なぜこの仕事を選んだのかすら忘れてしまう。だけど、困っていた人が安心した顔を見せたとき、ふと思い出す。ああ、自分は誰かのために働いているんだと。それは、孤独やしんどさの中でも小さな光になる。自分の存在が、誰かの役に立てる。その事実が、また一歩踏み出す力になる。
自分を大事にすることも、誰かのためになる
最後に、自分に言い聞かせている言葉がある。「無理しないことも、誰かのためになる」。自分が壊れてしまっては、結局誰も助けられない。だから、少しずつでも休む勇気を持とう。誰かに頼ることも、決して甘えではない。優しさを長く続けるためには、自分自身を大切にすることが第一歩なのだ。
「優しさ」と「我慢」は、似て非なるもの
優しさとは、自分の心に余裕があるときに自然と出てくるもの。我慢とは、自分を犠牲にして押し殺すこと。同じように見えても、中身はまるで違う。私は今、ようやくその違いに気づけた気がする。これからは、優しさを装うのではなく、本当の意味でのやさしさを持って生きていきたい。そう思えた時、きっとまた仕事が少しだけ楽しくなる。