名刺を渡すことに慣れてしまったけれど
司法書士として十数年、名刺を渡した相手の人数はもう数えきれない。開業当初は、名刺一枚に思いを込めていた。名前を覚えてもらえるか、ちゃんと仕事に結びつくか、緊張しながら手渡したものだった。けれど今では、その行為があまりにも日常化してしまっている。習慣とは怖いもので、心が置き去りになっていることにも気づかなくなる。
最初の頃は一枚一枚に緊張していた
独立して間もないころ、名刺交換の場に出るのは本当に勇気が要った。スーツもぎこちなく、自己紹介も棒読み。震える手で名刺を差し出し、相手の目をまともに見られなかった。あのときは、それでも「相手とつながりたい」という気持ちがあった。事務所の名前を覚えてもらい、困ったときに声をかけてもらえるようになりたくて、ひとつひとつに願いを込めていた。
誰かとつながれる気がしていた
「名刺が増えれば人脈も増える」なんて、どこかのビジネス書で読んだような気がする。信じて疑わなかった。イベントで話しただけの人、一度だけすれ違った人、行政の担当者…それでも自分の名前が記憶のどこかに残ればいい。そう思って配り続けた。今思えば、どこか必死すぎて空回りしていたようにも感じる。
今はただの儀式のようになってしまった
最近は名刺交換の瞬間にも、感情が動かなくなっていることに気づく。丁寧に頭を下げても、そこに心が伴っていない。お互いに「仕事だから」と割り切っている。話した内容も覚えていないまま、後日連絡が来ることもなく、名刺だけが増えていく。あの厚みが人脈ではなく、虚無の象徴に思える日もある。
心が通じ合う瞬間はいつも違う形でやってくる
皮肉なことに、名刺も交わさずに始まった関係の方が、長く続いていたりする。仕事帰りに偶然入った定食屋で隣に座ったおじさん、毎朝コンビニで顔を合わせる店員さん。そんな人たちの何気ない一言に、妙に心が軽くなったりする。人とのつながりって、そういうものかもしれない。
雑談の中に見える本音
お客さんとのやりとりでも、実は案件の説明よりも、その後の世間話の方が印象に残っていたりする。近所の話、家族の話、最近観たドラマの話。そういう何気ない話ができるようになると、仕事もスムーズになる。書類のやり取りでは見えなかった「その人らしさ」が、雑談の中で垣間見えるからだ。
書類を交わすより、沈黙に救われた
あるとき、相続の相談で来られたご年配の方がいた。話しながら、何度も涙をぬぐっていたが、私は何も言えなかった。ただ黙ってうなずくだけ。でも、その時間のあとで「来てよかった」と言ってもらえたとき、ああ、言葉や名刺じゃなく、沈黙の中でも人はつながれるんだと実感した。
うちの事務員さんとの不思議な距離感
事務員の彼女とは、もう5年以上の付き合いになるけれど、未だに敬語で会話している。特別に仲が良いわけでも悪いわけでもない。でも、どんなに忙しくても、朝一番に「今日もよろしくお願いします」と声をかけられると、少し背筋が伸びる。そういう小さなやりとりが、名刺100枚より価値があるように思える。
数を追っても、関係は深まらない
イベントで名刺を50枚配った日と、1人とじっくり話せた日。どちらが充実していたかといえば、後者だったりする。広く浅くのつながりが必要な時期もある。でも、歳を重ねると「心の置き場所」が欲しくなる。名刺の山の中に、それが見つからないことに、少しだけ虚しさを感じている。
名刺ホルダーがいっぱいになって気づいたこと
引き出しの奥にある名刺ホルダー。久しぶりに開いたら、知らない名前ばかりで驚いた。何年も前に交換したまま、会ってもいない人たち。なぜこんなに執着していたんだろう。誰とつながりたかったんだろう。そんな問いがふと浮かぶ。あの頃の自分に「数じゃない」と言ってやりたくなった。
本当にまた会いたいと思える人はごくわずか
本当に覚えているのは、困ったときに助けてくれた人、雑談に付き合ってくれた人、一緒に昼を食べに行った人。名刺なんてなくても、顔も名前も思い出せる。そんな関係の方が、今の私にはよっぽど価値がある。だからこれからは、無理に名刺を配るのはやめようと思っている。
一人でいることに慣れすぎた自分
司法書士という仕事は、孤独に強くなりすぎるところがある。書類に向き合う時間が長いし、誰かに助けを求めるのも下手になる。そんな自分にとって、人との距離感はとても難しい。名刺交換のような形式的なつながりに慣れてしまうと、逆に「本当の関係」に戸惑うようになってしまう。
会話が減ると、心も鈍る
誰とも話さない日が続くと、言葉が出にくくなる。電話が鳴るだけで緊張する。ああ、誰かと話すって、こんなに難しかったっけ。そう感じることが増えてきた。名刺交換ではなく、もっと素朴な会話が、自分を人間らしくしてくれるんだと思う。
だからこそ、何気ないひと言に救われる
「暑いですね」「いつもありがとうございます」そんなひと言が、心にしみる日がある。名前も知らない人からの言葉に、妙に救われることもある。だからこそ、自分もそういう存在でありたいと思う。名刺ではなく、言葉や態度で人とつながっていたい。
仕事は人と人の間にある
司法書士の仕事は、法律や書類の世界に見えて、実は人間関係の積み重ねだ。どれだけ知識があっても、相手の心に寄り添えなければ、信頼は生まれない。名刺ではなく、「この人に頼んでよかった」と思ってもらえるような人間でいたい。
名刺よりも信頼をつなぎたい
これまでに渡した名刺の数だけ、信頼を築けてきただろうか。正直、自信はない。だけど、これからは違う形で人と向き合いたいと思う。名刺を渡す代わりに、時間を割き、言葉を交わし、相手を知ろうとする。それが、司法書士としても、人としても、私のやり方でありたい。
それでもまだ、言葉が足りない
つい愚痴っぽくなってしまうこともある。誰かに助けてほしいとき、素直になれないこともある。それでも、名刺の向こうに人がいると忘れずにいたい。心が通じないと感じたときほど、自分の側から一歩踏み出すこと。その一歩の重さを、これからも噛み締めていきたい。