登記は進むのに、自分の心は置き去りのまま
毎日、不動産の登記を処理している。名義が変わり、地番が移り、所有権があっちからこっちへ移動する。でも、その処理をしている私の心は、まるで地面に根を張った杭のように、まったく動かない。パソコンの前で書類を打ち込みながら、ふと気づく。「あれ? 俺の感情、ここ最近何かに動かされたっけ?」。仕事は流れている。けれど自分自身は、完全に止まっている。クライアントの人生は前に進んでいるのに、私は机の前で毎日“位置登録”されたままだ。
毎日「処理」はしている、でも「前進」はしていない
一日の終わりに「今日もたくさんこなしたな」と思える日はある。依頼件数、申請件数、提出書類の量、全部数字で把握できる。けれど、心の中は何ひとつ変わっていない。やりがい? 達成感? そんなものは、もうずいぶん前に置いてきた。最近は、“前進しているフリ”に慣れてしまったのかもしれない。処理能力ばかりが上がっていって、肝心の心がついてこない。進んでいるように見えて、実はずっと同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかもしれない。
不動産の権利は動いても、自分の感情は停滞中
法務局に申請した書類が受理され、権利が移転し、登記簿が書き換わる――それは確かに「変化」だ。だけど、私自身の感情はというと、もう何年も「現状維持」モード。依頼が来て、処理して、完了の報告をして、はい次。そういう流れのなかで、感情を乗せる余白すらなくなってしまった。いや、正確には「感情を乗せるのが面倒になった」と言った方が近いかもしれない。心が動かない方が、効率はいい。でも、喜びも驚きも、そこにはない。
処理能力と心の動きは、まったく別の問題
年々、手続きのスピードは上がっている。昔は手探りでやっていた業務も、今では目をつぶってもできそうなほど。経験と慣れは確かに武器になる。けれど、それと同時に、何も感じなくなっていく自分にも気づいてしまう。感動する暇があったら、1件でも多く処理した方がいい。そう思ってしまった時点で、心は少しずつ鈍くなっていった。機械のように正確でも、人間らしさが失われていく。処理能力と心の健やかさは、比例しないという現実が、ここにある。
変化に強いはずなのに、自分にはなぜか適用できない
司法書士という職業は、他人の「変化」に日々関わる仕事だ。相続、売買、法人設立、離婚…人生の節目に携わるたびに、「人っていろいろ動くもんだな」と思う。でも、その一方で、自分自身の生活や心は、何も動かない。むしろ、どんどん硬直しているような気がする。変化のプロのはずが、自分のこととなると、どうにもこうにも鈍い。人の人生にはアドバイスできても、自分の人生には「保留」のスタンプを押したまま何年も経ってしまった。
他人のことは淡々とこなせる。でも、自分のことはできない
仕事になると、スイッチが入る。クライアントに必要な書類を案内し、期日を確認し、流れを管理する。そこに感情の揺れはない。むしろ、淡々としているくらいがちょうどいい。けれど、その調子で自分のことを見ようとすると、まったく動けない。休日の予定、健康管理、将来の展望――何を考えても、「また今度でいいか」で終わってしまう。他人の人生の重要局面に真剣に向き合っているのに、自分の人生だけは、なぜか後回しになる。
登記の知識はあるけど、感情の整理はできない
「感情にも登記簿があればいいのに」と思ったことがある。今、自分の心には何が登録されていて、どんな権利関係があって、誰の影響を受けているのか――そんなふうに明確に把握できたら、もう少し楽かもしれない。でも現実は、何が引っかかっているのかさえよくわからないまま、ただただ感情が鈍く沈んでいる。自分のことになると、論理が効かない。感情の整備は、資格があっても、経験があっても、簡単にはできないものだと痛感している。
「動かなさ」が染みついてしまったのはいつからだろう
気づいたら、変化を避けるようになっていた。毎日同じ時間に起きて、同じ道を通って、同じ事務所で、同じ椅子に座る。それが「安心」だと思っていたけれど、最近は「硬直」に近い。昔はもう少し、気持ちに柔らかさがあった気がする。ちょっとしたことにワクワクしたり、嫌なことに真正面から向き合ったり。でも今は、あらゆる感情に“クッション”がかかっていて、良くも悪くも響かない。どこか麻痺してしまっているのかもしれない。
成長よりも「維持」ばかり意識してきた
いつからだろう。前向きな目標を立てることをやめて、「今の水準を保つこと」が最優先になっていた。ミスが許されない仕事だからこそ、安定性は大事だ。けれど、その意識が強すぎると、「成長=リスク」となってしまう。結果、チャレンジを避け、変化を避け、心まで固まっていく。少しずつ少しずつ、“自分らしさ”というものが形を失っていく。気づいたときには、もう動き方すら忘れていた。
挑戦しない日々が“当たり前”になっていた
最初は「少し休もう」「今は忙しいから」という理由だった。でも気づけば、それが当たり前になっていた。動かないことに慣れてしまったのだ。そうなると、動こうとした瞬間に、すごく大きな力が必要になる。「ちょっと出かける」「誰かに連絡を取る」そんな些細なことですら、気持ちが追いつかない。心の可動域が、どんどん狭まっていく。自分の心に、知らぬ間に“使用停止処分”を食らっていた気分だ。