説明しても伝わらない日々に疲れて
司法書士という仕事は、淡々とした事務作業のように見えて、実は言葉のやり取りに神経を使う職業だ。依頼人には法律用語をかみ砕いて丁寧に伝え、役所には正確かつ誤解のない表現で届け出る必要がある。そして、その間をつなぐのが事務員の存在。だが、こちらが一生懸命に伝えた内容が、翌日には「聞いてませんでした」と返されると、なんとも言えない脱力感に襲われる。まるで、一人で野球のピッチング練習をしていたら、キャッチャーがいなかった、そんな感じだ。
「言ったよね」の虚しさ
「あれ、昨日説明しましたよね?」と聞き返す自分の声が、思いのほか冷たかった。もちろん怒鳴りたいわけじゃないし、責める気もない。でも、心のどこかで「ちゃんと聞いててくれよ」と叫んでいる自分がいる。野球部時代、サインミスでバッテリーエラーをしたときも、あの瞬間は似たような気持ちだった。ただ、あの頃は怒鳴り合っても最後には笑えた。でも今は違う。社会人になっての“すれ違い”は、修復が難しい。
記憶にないと言われた絶望
「すみません、記憶にないです」と言われた瞬間の、あの心がスーッと冷えていく感覚は、何度経験しても慣れない。こちらはメモを渡し、口頭でも説明し、場合によってはホワイトボードに書いたりもする。それでも「忘れてました」の一言で、すべてが無に帰す。言葉にすること、伝えることが仕事の自分にとって、それは一種の敗北だ。
二度手間三度手間が日常茶飯事
ひとつの申請書を仕上げるまでに、確認・修正・再提出が何度も繰り返される。これは仕方ない面もある。でも、そもそも前提を忘れられていたり、手順が共有できていなかったりすると、最初からやり直しになる。たとえば、役所に提出する書類に添付する書類をお願いしていたのに、「聞いてなかった」と言われたときなどは、心の中で三塁コーチャーが腕をぐるぐる回している。いや、もうアウトなんだけど、みたいな。
忘れられる側の気持ちは置いてけぼり
人間だから、誰だって忘れることはある。それはわかっているし、自分だってミスはする。でも、忘れられることが“当たり前”になってくると、段々と自分の存在や努力が空気みたいに思えてくる。伝えたことが、そこにいた痕跡すらなく消えている。そんなとき、心の底から「自分ってなんなんだろう」と思ってしまう。
相手に悪気がないほどこっちは傷つく
「あ、ほんとですか?すみません!」と悪びれもせず笑って言われると、なんだか余計に傷つく。悪意がないからこそ、こちらが神経質に見えてしまうし、「気にしすぎ」と言われることもある。でも、やっぱり毎日毎日同じ説明を繰り返すうちに、「自分の存在って意味あるのかな」と考えるようになる。どれだけ丁寧に伝えても、結局“忘れられる側”でしかないという現実が、じわじわと効いてくる。
事務所の空気が冷たくなる瞬間
お互いに無意識なのだろうが、説明した内容が抜けていたとき、事務所の空気がピンと張り詰める。気まずさが漂い、沈黙が流れる。その数秒がやたらと長く感じられる。自分も「何度も言うのもな」と思いつつ、説明を繰り返す。けれども、なんとなくその場しのぎになっている感じが否めない。こんな毎日が続いていて、どうして事務所を運営し続けているのか、自分でもわからなくなる瞬間がある。
自分の伝え方が悪いのかと悩みだす
忘れられるたびに「こっちの言い方が悪かったのかな」と考えてしまう。思い返してみれば、昔からそうだった。野球部でもキャプテンに向いていないと言われ、飲み会でも話が長いとツッコまれ、要点をまとめるのが下手なんだろうかと、今さら自問自答する。司法書士になって20年近く経つのに、いまだに「伝える」という課題から逃れられない。
結局自分を責める癖が抜けない
忘れられたとき、最初の反応はたいてい「俺の言い方がまずかったかな」だ。怒るより先に反省してしまう。だが、それが積もり積もると、心がすり減っていくのを感じる。自責と自己否定の境目があいまいになり、「こんな自分が人に仕事を頼む資格あるんだろうか」なんて考え始める。でも、そうして責めたところで、誰が救ってくれるわけでもない。
説明の仕方を工夫したはずなのに
図解を加えたり、チェックリストを作ったり、声のトーンを変えてみたり、色々工夫してきた。でも、それでも「聞いてない」と言われると、努力が無意味に思える。たとえば、先日なんて、手書きのイラスト付きで書類手順を説明したのに、「初耳です」と返された日には、笑う気力もなかった。野球でいえば、送りバントしたのに誰も走ってなかった、そんな感じ。
メモを渡しても確認されない現実
「忘れないように」と思って渡したメモが、机の端でホコリをかぶっているのを見ると、涙が出そうになる。相手が忙しいのも、慣れていないのもわかっている。だけど、こちらも一人で回してるんだ。メモすら読まれない状況で、どうやって連携を取れというのだろうか。誰かと一緒に働くって、もっと安心できることだったんじゃないか。そんな幻想を一枚一枚、はがされていくような気がする。
ひとりの事務所で抱える限界
人手が足りない。わかってる。わかってるけど、これ以上誰かを雇う余裕もないし、育てる時間もない。結局、「自分でやった方が早い」が口癖になっている。それが良くないってことは重々承知。でも、信頼して任せて忘れられるくらいなら、自分でやって失敗した方がまだマシだと思ってしまう。そんなことばかりの毎日。
全部背負ってる気持ちになるとき
登記も、相続も、相談も、電話も、雑用も、全部自分でこなしていると、「俺しかいないんじゃないか」と思うことがある。もちろん事務員さんは頑張ってくれている。でも、責任の最終地点が常に自分なのは、じわじわ効いてくる。時々、自分の存在を忘れてほしいくらいだ。そうしたら、少しは楽になれる気がして。
誰のせいでもないが誰かのせいにしたい
人のせいにするなんて、器の小さい証拠だとは思う。でも、それでも「どうしてちゃんと聞いてくれなかったの」と心で思ってしまう瞬間がある。たぶん、自分のキャパが限界に来てる証拠なのだろう。そういうときこそ冷静でいたいと思うのに、感情は裏切ってくる。
ふと野球部時代の上下関係を思い出す
野球部では、先輩後輩の礼儀が厳しくて、報告や連絡がしっかりしていた。あの頃は、それが面倒でもあり、でも秩序だった。それを思うと、今の事務所の緩さに時々戸惑う。伝達ミスや忘れられた連絡に、自分の責任を感じる反面、「あの頃の厳しさが今もあれば…」と、ないものねだりをしてしまう。
感情を吐き出せる場所がない
仕事の愚痴を誰かに聞いてほしい。でも、司法書士という職業は、どうしても“ちゃんとしてる人”を演じてしまう。飲みにも行かず、恋人もおらず、結局吐き出す場はこの頭の中だけ。だから、夜な夜なこうやって文章にしているのかもしれない。
モテない中年司法書士の孤独な叫び
この歳になって、愚痴を聞いてくれる相手がいないというのは、想像以上に寂しい。結婚している同業の友人は、奥さんに話してるらしい。それがうらやましい。なんで自分はこうなんだろう。努力が足りない?性格の問題?もう何をどうすればいいのかわからない。ただ、今日も誰にも聞かれないまま、「聞いてなかったです」と言われて一日が終わる。
愚痴も言えないほど忙しい日は続く
一つ一つは小さな出来事でも、積もると重い。愚痴すらこぼせず、忙しさの中に埋もれていく日々。でも、そんな中でも「誰かの役に立てているはず」と信じて、明日もまた説明を繰り返すんだろう。忘れられることに慣れてはいけない。けれど、もう少しだけ、自分にも優しくなりたい。