登記完了通知よりもLINEが欲しい夜

登記完了通知よりもLINEが欲しい夜

登記が完了した通知音、それだけが鳴る夜

日が落ちて、事務員も帰り、静まり返った事務所。パソコンのモニターの光だけが部屋を照らす中で、「登記完了」のメール通知が届く。ああ、今日も一件終わった。けれど、心にじわりと広がるのは達成感じゃなくて、妙なむなしさだ。スマホは黙ったまま。誰かから「おつかれ」とか「今日どうだった?」って、そんな一言でももらえたら、きっと全然違うんだろうなと思いながら、湯沸かしポットに手を伸ばす。誰にも言えないけれど、登記よりLINEが欲しい、そんな夜がある。

スマホが鳴るたびに一瞬期待する自分が情けない

通知音が鳴る。反射的にスマホを見る。でもそれは大抵、銀行、Amazon、あるいは仕事関係。LINEではない。誰かからの温度を感じるメッセージではない。数秒後、自分の反応が情けなくなる。こんなこと、大学時代の自分に言ったら鼻で笑われそうだ。あの頃は、「司法書士になれば、ちゃんとした職業について、それなりに人間らしい毎日を送れる」と信じていた。まさか、LINEの通知ひとつに心揺れるようになるとはな。

通知の「法務局」より、誰かの「おつかれ」が欲しい

通知が「法務局からの登記完了のお知らせ」だったときのがっかり感。手続きが滞りなく進むことはもちろん大切だ。でも、今の自分にとっては、誰かからのたった一言の方が、よほど心に響く。クライアントには誠実に対応しているし、登記も正確に迅速にこなしている。それでも、誰かの「おつかれさま」の一言で救われる夜が、司法書士にはあると思う。いや、あるはずだ。

事務員さんには悪いが、帰ったあとの静けさが辛い

うちの事務所には、ひとり事務員さんがいる。とても助かっているし、感謝もしている。けれど、彼女が定時で帰ったあとの事務所の静けさが、逆に堪える。キーボードの音すら虚しく響く。BGMでも流せばいいのかもしれないけれど、そういう工夫をする気力も出てこないときがある。誰かと共有できない仕事は、成果がどんなにあっても、どこか空虚なんだ。

忙しいのに、心が満たされない矛盾

朝から晩まで電話にメール、登記の準備と確認作業。スケジュールはぎっしりで、気がつけば昼飯もろくに食べていない。それでも「忙しさ=充実」とは限らないのが現実だ。ひとつひとつの案件に心を込めていても、それが自分の心を満たすわけではない。気づけば、何のために働いているのか、見失いそうになる。

依頼は来る、でもLINEは来ない

ありがたいことに、紹介もリピーターもそれなりにある。でも、仕事が来るのと、プライベートが満たされるのとは話が別だ。誰かに必要とされていることはうれしいのに、それが全部「業務」としての関係であると、ふと寂しさが募る。スマホを見ても、連絡は全部業務連絡。プライベートのトーク画面が、何日も動いていないのが現実だ。

「仕事があるだけマシ」と自分に言い聞かせてみるけれど

贅沢を言ってはいけないのかもしれない。コロナ禍でも潰れずに仕事を続けられている。紹介もある。感謝すべきだ。そう自分に言い聞かせる。でも、そうやって「我慢の納得」を積み重ねすぎると、どこかで感情が干からびてしまうような気がしてならない。「仕事があるだけマシ」という言葉は、ある意味で自分を黙らせる呪文だ。

それでも心が空っぽに感じる瞬間はある

どれだけ実績を積んでも、どれだけ感謝されても、家に帰ってひとりになると、ふと心が空っぽになる瞬間がある。テレビをつけても、YouTubeを流しても、埋まらない何かがそこにある。友人たちは家庭を持ち、仕事と育児の両立に悩んでいるというのに、こちらはひとり、登記の完了を誰にも報告することなく、缶ビール片手に無言の祝杯をあげている。

それでも明日はやってくる

どれだけ心が満たされなくても、明日もまた誰かの登記を支える一日が始まる。報われなくても、喜ばれなくても、そこに責任がある限り、僕ら司法書士は手を抜けない。LINEが来なくても、感謝が言葉にならなくても、それでも誰かの人生の一部を守っている。その自負だけで、今日もギリギリ立っていられるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。