母の「結婚は?」攻撃、また来たか…という朝
朝の静けさを破るように鳴るスマホの着信音。発信元は「実家」。この表示だけで、なんだか胃がキュッと縮こまる。たいがい体調か天気の話を挟んでから、本題の「結婚は?いい人いないの?」に入る。母に悪気はない、そう頭ではわかっている。だけど、毎回その言葉が、心にじわじわと沁みてくる。地方で一人、司法書士として働きながら、結婚もせずに生きている僕にとって、「結婚は?」のひと言は、まるで自分の人生そのものを否定されるような響きを持つ。
電話が鳴るたびに身構えるようになった
母の電話は、だいたい週に一度くらいの頻度でかかってくる。「元気にしてる?」から始まり、最近の天気やご近所さんの話を一通り終えたところで、ほぼ必ずといっていいほど「そろそろ結婚考えなさいよ」とくる。この流れがもはやテンプレ化していて、着信音が鳴るだけで「またか…」と心の準備を始めるようになってしまった。たまに仕事の相談かと思って出ると、それでも結局「ところでさぁ、結婚は?」に戻ってくる。これが一番こたえる。
用件の8割が結婚と健康の話
母との会話の内容をメモしていた時期がある。ある日、ふと自分の記憶に自信がなくなって、試しに1か月の会話内容をざっくり書き起こしてみたら、約8割が「結婚」と「健康」の話だった。僕がいま抱えている業務の煩雑さや、事務員の体調不良による人手不足の話なんて、母にとってはまるで無関心なのだろう。悪気がないことはわかる。でもそれが、より一層つらい。
仕事よりメンタルにくる母の言葉
登記の訂正や法務局対応、クライアントからのクレームなんて、もう慣れたものだ。だけど、母の「結婚してくれたら安心できるのに」は、どうしても心に突き刺さる。仕事で失敗したことより、母の期待に応えられないことの方が重く感じるのは何故だろう。仕事は「納品」や「書類」で終わるけれど、母の言葉は終わりがない。僕の人生の選択を、まるで不正解のように言われると、日々の頑張りまで否定されたような気がする。
結婚=幸せという昭和の価値観
母にとって、結婚して家庭を持つことは「当たり前」のゴールだ。いまさらそんな価値観は古いと言っても、母の世代では「結婚して一人前」「孫を見せて親孝行」という構図が根深く残っている。僕が独身でいることは、母の中では“途中で止まっている状態”らしい。完了してない人生、という認識なのだろう。でも、今の時代は違う。僕は僕で、自分のペースで生きているつもりだ。
母にとっては「結婚して一人前」なのかもしれない
母は農家の娘で、20代前半で父と結婚し、子どもを産んでからもずっと専業主婦だった。世代が違うとはいえ、母の中で「結婚=人生の完成形」になっていることは否定できない。僕のことを想って言ってくれているのはわかるけれど、その想いがまっすぐ刺さってくるときがある。こっちの「一人でもちゃんとやってる」という声が、届かない感じがしてつらい。
時代が変わっても母の価値観は変わらない
一度、勇気を出して「今の時代は結婚しない人も多いよ」と伝えたことがある。すると母は「でもアンタ、寂しくないの?」と返してきた。寂しいときはある。でも、それと結婚は別問題だ。それでも母にとっては「一人=かわいそう」という式が成り立ってしまっている。自分が思っている“普通”は、母の“異常”なのかもしれない。すれ違いは、年々深まっている気がする。
そもそも結婚したくないわけじゃない
「結婚する気がないのか」と聞かれることもある。でも、それは違う。ただ、これまでに機会がなかっただけだ。若い頃は仕事優先で過ごし、気づけばもう40代。出会いは職場にもなければ、紹介も気まずくて断ることが多かった。結婚しない“主義”というわけでもないが、今さら「結婚したい」と言うのも照れくさい。それでも、本心を聞かれたら「縁があればしたい」と思っている。
ただ、タイミングと出会いがなかっただけ
大学時代の彼女とは長く続かなかったし、社会人になってからは仕事が忙しくて、それどころじゃなかった。司法書士になった当初は、ひたすら資格と向き合う日々。恋愛に時間を割く余裕もなかったし、地方勤務が決まってからは、さらに出会いが遠のいた。選ばなかったというより、自然と距離ができてしまった、というのが正直なところだ。
仕事に追われているうちに、気づけばこの年齢
開業してからというもの、毎日が戦争だった。ひとり事務所で、事務員も最初はいなかった。ようやくひとり雇った今も、休みなんてあってないようなもの。そんな生活の中で、ふとカレンダーを見て「もう45か…」と気づく瞬間がある。時間は誰にでも平等に過ぎていく。結婚に対して本腰を入れる間もなく、人生が進んできた気がする。
婚活アプリに登録して三日でログアウトした話
あるとき、意を決して婚活アプリに登録してみた。写真もなんとか用意し、プロフィールも真面目に書いた。けれど、三日でログアウトした。なにをどう話しかけていいのかわからず、気疲れしてしまった。メッセージのやり取りが業務メールのようになってしまって、「これは向いてないな…」と自覚した。自分が恋愛を楽しむテンションに、すでにいないのだと気づいてしまった。
「結婚しないの?」と聞かれると疲れる理由
何気ない一言でも、それが繰り返されるとダメージになる。「結婚しないの?」と聞かれるたび、相手の期待や常識と、自分の現実のズレを突きつけられる。質問者は悪気なく聞いているのかもしれない。でも、独身でいる理由を説明するたび、言い訳をしているような気持ちになる。正直、説明すること自体が疲れるのだ。
選ばなかったのではなく、選べなかった現実
結婚しなかった理由を「選んだ」と言われることがある。でも実際は「選べなかった」だけだ。努力不足と言われたらそれまでかもしれない。けれど、人生はそんなに単純じゃない。仕事、環境、タイミング、気力…それらがすべて揃うことの難しさを、僕は痛いほど知っている。だからこそ、「結婚しないの?」という言葉には、うまく返せない。
言葉にできない複雑な感情がそこにある
悔しさ、寂しさ、焦り、諦め、そして少しの希望。結婚に関して抱いている感情は、決して一言では言い表せない。母に「心配してるのよ」と言われるたびに、「わかってるよ」としか言えない自分がもどかしい。心の奥では、どこかで母を安心させたいと思っている。でも、それができない現実とのギャップに、いつも疲れてしまう。
母の期待を裏切ってるという罪悪感
一番つらいのは、「親を悲しませているのではないか」という罪悪感だ。母は悪くない。むしろ、僕を支え続けてくれている存在だ。でも、だからこそ応えられない自分が苦しい。母の望みを叶えられない自分は、どこかで「親不孝なんじゃないか」と自分を責めてしまう。そんな感情を抱えながら、今日もまた仕事に向かう。
「親孝行=結婚」と刷り込まれてきた人生
親戚の集まり、法事、同窓会…あらゆる場面で言われてきた「早く結婚しなさい」。その言葉を聞くたびに、結婚しなきゃ親孝行にならないのか、と感じてきた。母の期待に応えたい。でも、誰かと人生を共にするには、もっと自然な出会いや気持ちの通い合いが必要だ。形式だけの結婚では意味がない。
でも、誰かのために自分を犠牲にするのは違う
母のために結婚する。それは優しさかもしれない。でも、自分を偽ってまで生きるのは、きっと後悔する。たとえ独りであっても、自分の人生に納得していたい。母の願いを叶えられないことは心苦しい。でも、自分を大事にすることもまた、人生を生きる上で大切なことだと思う。
結婚してもしなくても、結局は自分の人生
結婚はゴールじゃない。してもしなくても、人生は続いていく。母の言葉に揺れることもあるけれど、最終的に責任を持つのは自分自身だ。誰かの期待に応えるためではなく、自分が納得できる人生を歩むために、今日もまた仕事に向かう。母の声が響く朝もある。でも、それすらも、今の僕の一部なのだと思うようにしている。