忙しい“フリ”が、もはや習慣になっていた
朝から晩まで、本当に忙しいのかと問われれば…正直、自信がない。仕事はある。でも、それは「急ぎで処理しなければならないもの」ばかりではない。パソコンの前に座って、書類をめくり、電話を取りながら「忙しいふり」をしている自分がいる。それが日常になりすぎて、自分でも「本当に忙しいのか?」という感覚が麻痺してきた。気づけば、予定が空いている日まで何かに追われるふりをしていた。誰の目を気にしていたんだろう? 事務員にも「今日は忙しそうですね」と言われて「まぁ、ちょっとね」なんて返していたけど、実際にはただExcelの罫線で遊んでただけだったりするのだ。
本当に忙しいのか、自分でもわからなくなった
「今、ちょっとバタバタしてまして…」と口に出すことがクセになっていた。依頼が詰まっているときも確かにある。けれど、そこまで切羽詰まっていないのに、「忙しい」と言ってしまう日も増えた。本当に自分が忙しいのか、わからなくなってくる。以前、同業の先生と飲みに行ったとき、「忙しいアピールって、自己防衛みたいなもんだよね」と笑い合った。けど笑いながら、内心では「じゃあ俺のこの忙しさは、何だ?」とモヤモヤしていた。自分の存在価値を“忙しさ”に託すようになっていたのかもしれない。
無駄な移動、意味のない資料チェック、そしてため息
たとえば、わざわざ法務局に行かなくてもいい手続きも「念のため」と自分に言い聞かせて出かけていたり。電車の中ではスマホを眺め、事務所に戻ったら「ちょっと確認してきた」と小さな成果報告。冷静に振り返ると、それって仕事をこなした“ふり”に近い。書類をもう一度確認するフリをしながら、実は内容を覚えていなかったり。誰に見せるでもないパフォーマンスに、時間を費やしている。ため息だけがプロフェッショナル級に板についていく。
「忙しいです」が便利な言い訳になっていた
「あの件、どうなりました?」と聞かれて、「ちょっと今、立て込んでて…」と返してしまう瞬間がある。本当は先延ばしにしていただけ。でも「忙しい」と言えば、だいたいのことは許される。そんな風に“便利な盾”として使い始めると、もう止まらない。次第に、やらない理由としての「忙しさ」が習慣化してしまう。気づけば、自分自身に対してすら言い訳していた。「今日は忙しかったから、もういいや」——その“忙しさ”が、自作自演だったとは思いたくなかった。
誰のための“忙しさ”か、ふと立ち止まる瞬間
ある日、事務所でぼーっとしていたとき、ふと「今、自分は誰のために忙しがっているのか?」という問いが浮かんだ。クライアントのため? 社会のため? ……いや、たぶん“誰かに認められたい自分”のためだ。忙しそうにしていないと、「暇そうな司法書士」と思われそうで怖かった。でもその“誰か”は実在しているのだろうか? 誰にも見られていないのに、見られているフリをして、自分の存在意義を守ろうとしていた。
事務員さんの冷静な目に救われたこと
「先生、暇なときは暇でいいんじゃないですか?」。ある日、事務員さんにぽろっと言われた一言。ドキッとした。自分では完全に“忙しいキャラ”を演じ切っていたつもりだったから。でも、それを見透かされていた。そして、その言葉に少し救われたのも事実だった。無理に役者を続けなくてもいいんだと、ちょっとだけ肩の力が抜けた気がした。
「暇そうに見えるのが怖い」心理の正体
「暇ですね」と言われることに、なぜか強い抵抗がある。開業当初、近所の人に「今、暇でしょ?」と言われた時の悔しさがトラウマになっているのかもしれない。だから、今でも“忙しそうに振る舞う”ことで、自分の価値を保っている気になってしまう。でも実際は、そんな忙しさを演じている暇があったら、もっと大事なことに目を向けた方がいいんじゃないかと思う。けれど、その“恐れ”はなかなか消えてくれない。
司法書士という仕事の“忙しさ”は演出されがち
業界の性質上、表に出る仕事が少ない。だからこそ、日常の様子が“見えづらい”という特徴がある。そのため「忙しくしてる感」が必要以上に求められる空気がある。周囲の先生たちも、「いや〜忙しいよ」と口にする。でも、それが本当に忙しいのか、それとも“おまじない”のような言葉なのか、わからなくなるときがある。司法書士の“忙しい”は、半分くらいは演技かもしれない。
電話をしてるフリ、考えてるフリ、書類探すフリ
電話を取って、用件が終わっても少し余韻を残す。書類を探すと見せかけて、同じ引き出しを何度も開け閉めする。パソコンを見つめているフリをして、実はSNSを眺めている。こんな小さな“ふり”の積み重ねで、1日が終わっていく。演技力は確実に上がった。誰にも評価されないスキルだけが、じわじわと身についていく日々。
見られていないのに、誰かの目を意識してる
事務所には事務員しかいないのに、なぜか「忙しくしていないとダメ」な気がする。お客さんが突然来るかもしれない。通りすがりの誰かが「暇そう」と思うかもしれない。そんな被害妄想にも似た心理が、常に働いている。誰も見ていないのに、自分自身の“監視カメラ”に怯えているようなものだ。
自分を忙しく見せないと“価値がない”ような気がする
「暇な司法書士=仕事ができない」そんな風に思われるのが怖くて、無理に忙しそうなふりをしていた。でもそれは、誰の価値観なんだろう? 自分を安く見られたくないという思いが、逆に自分を不自由にしていた。もっと自然体で働けたらいいのに、それがなかなかできないのがこの業界のややこしいところでもある。
他の司法書士も“ふり”に苦しんでいないか?
同業の先生との会話で、「忙しそうにしてないと不安になるよな」という言葉が出たとき、ホッとした。自分だけじゃなかったのかと。他の先生も、きっと似たような思いを抱えながら日々を過ごしているんだろう。忙しいふりは、自分を守る鎧でもある。でもその鎧が重たくなって、動けなくなる前に、少し脱いでみる勇気も必要かもしれない。
「あの先生、暇そうですね」の一言が怖い
業界内で「あの先生、最近暇らしいよ」なんて噂が流れると、それだけで仕事が減りそうな気がする。だからこそ、忙しいふりでもして“動いてるアピール”が欠かせない。でもそれって、なんだか切ない。信用は、暇かどうかじゃなくて、ちゃんと仕事をするかどうかで決まるはずなのに。
開業初期の“忙しいふりトレーニング”を思い出す
開業してすぐの頃、来客も電話もなかった事務所で、「忙しそうに過ごす」ことに全力を注いでいた。椅子に座る姿勢、キーボードを叩く音、電話の取る速さ。全部、自己演出の一環だった。今思えば、ちょっとしたコントだ。でもそのおかげで、今の“演技力”があるとも言える。悲しいけれど。
“忙しいふり”から脱却するには
本当に忙しいかどうかよりも、自分が何に追われ、何を守ろうとしていたのかに気づくことが先だと思う。「暇だからこそできること」「余裕があるときこそやるべきこと」を考えられるようになれば、忙しいふりをする必要もなくなる。少しずつ、そういう方向にシフトしていけたらいい。
本当に忙しい人は「忙しい」と言わないという真実
本当に忙しい人ほど、「忙しいです」とは言わない。むしろ「いや、なんとかやってますよ」と笑っている。その余裕がある人に、信頼が集まっていく気がする。逆に、“忙しさ”を盾にしてるうちは、まだどこかで自分に自信がない証拠なのかもしれない。自分もそんな“余裕ある人間”に、少しでも近づきたいと思う。
自分の時間をちゃんと見直してみる
1日のスケジュールを見返して、「これは本当に必要だったか?」と振り返るようにしたら、無駄が見えてきた。つい習慣でやっていたこと、誰に頼まれたわけでもない“儀式”のような作業。それを減らすだけで、少し気持ちが軽くなる。そして、時間に余裕が生まれたことで、本当にやりたい仕事に向き合える時間も増えてきた。
やることがない時間も、価値ある“業務”に変える
たとえば、古い書類の整理や、過去の相談内容の振り返り。これまでは「時間があったらやろう」と後回しにしてきた。でも、こういう地味な作業こそが、あとから生きてくると感じるようになった。何もしてないようで、じつは大事な時間。それに気づけたのは、“忙しさの演技”をやめたからかもしれない。
少し肩の力を抜いても、意外と誰も見ていない
演技をやめても、誰も咎めないし、何も起きなかった。むしろ、素の自分でいられるようになって、仕事の質も上がった気がする。誰かの目を気にして、自分を演出するよりも、淡々と、自分のリズムで動くほうがずっと楽だ。少しだけ、自分を許せるようになった。
暇なときは、暇でいい
暇な日がある。それでいい。仕事がない日がある。それでいい。そんなふうに、自分に言い聞かせるようにしている。事務員さんにも「今日はのんびりで助かりますね」と言えるようになった。暇を恐れず、暇を受け入れる。そこから、ようやく“忙しさの呪い”が解けていく気がする。
無理して“演じない”ことも、仕事のうち
嘘をつかないこと、見栄を張らないこと。これって、案外難しい。でも、無理して演じ続けることが習慣になると、自分が壊れてしまう気がする。司法書士の仕事は、誠実さがすべて。それなら、まずは自分に誠実でありたい。“暇な自分”も含めて、ちゃんと認めてあげようと思う。