気づけば、誰かを疑う目つきになっていた
毎日契約書を読み、登記申請書をチェックし、委任状に不備がないかを確認する。そんな日々を十数年も続けていると、ふと気づくんです。「あれ、なんか最近、人を素直に信じられなくなってるな」と。誰かが何かを言っても、まず頭の中で「裏があるんじゃないか」「本当にそう言ったか証拠はあるか?」と自動的に考えてしまう。これ、完全に職業病ですね。最初は「プロ意識」だと思っていたけど、最近は「ただの疑い深い人」になってしまった気がしています。
書面でしか信用できなくなった自分
司法書士という仕事柄、「書いてあることが全て」「記録に残っていないことは信用できない」という感覚が染みついてきます。これが仕事の中だけならまだしも、プライベートにまで侵食してくるから厄介です。たとえば友人に「あとで返すよ」と言われても、「書いてないな…」と心のどこかで構えてしまう。自分でも嫌になるほど疑い深くなっていて、どこかで線を引かないと、全部壊れてしまうなと感じています。
「この人、本当に言った通りのことをしてくれるのか?」
ちょっと前、地元の友人に「週末飲もう」と言われたんです。昔からの友達で、何度も一緒に出かけた仲。でも、その約束に対しても「本当に来るかな?ドタキャンされるんじゃ?」と無意識に疑ってしまう自分がいました。実際には何の問題もなく会えたんですが、自分の中の「信用できなさ」が露骨に出ていて情けなくなりました。信じたいのに、勝手に防衛線を張ってしまう——それが今の自分の課題です。
口約束にビクビクしてしまう日常
「明日9時に来ますね」と業者さんに言われても、すぐに「何かあったら困るからメールで残しとこう」となってしまう。これは性格というより、仕事で何度も「言った」「言ってない」の争いを見てきた結果です。もちろん仕事ではリスク管理として正解かもしれない。でも、それを日常生活にまで持ち込むと、人間関係はガチガチになりますよね。もう少し、肩の力を抜いていいのかもしれません。
家庭でも仕事目線が抜けない
もし自分に家庭があったとしても、この性格はきっと揉め事の種になっていたと思います。たとえばパートナーが「今月は家計が苦しい」と言えば、「それ、どのくらい?根拠は?」と問い詰めてしまいそうで怖いです。結婚していたら離婚されてたかもしれないな…なんて、笑えない冗談が浮かぶほど。書類や数字でしか物事を捉えられなくなっている自分が、どこかで悲しくなることもあります。
恋愛がうまくいかない理由、ようやくわかった
昔、数回だけ婚活的なことをしてみたことがあります。いい感じになった女性がいたのですが、結局続きませんでした。今思えば、会話の中で相手の発言にいちいち裏を読もうとしていたんですよね。「この人、本当にこう思ってる?」「この言葉の裏には何が?」と。完全に契約書を読む時の目線です。そりゃあ、うまくいかないはずです。人間関係って、ある程度「信じてみる」ことが前提なんですよね。
司法書士という職業の「職業病」
細かいところまでチェックし、責任を負い、トラブルを防ぐ。それが司法書士の役割であり、誇りでもあります。ただしその分、目の前の人を「まず信じる」という力は、確実に摩耗していきます。「間違えたらどうしよう」「騙されたらどうしよう」そんな恐れが、自然と疑いへと変わっていくんです。仕事を続ける以上、完全にこれはなくならないんだろうな、とも思います。
契約書の読み込みが日常化していく
契約書のチェックは、もう呼吸みたいなものです。内容を逐一確認し、文言の違和感を指摘し、リスクを洗い出す。それが日常です。でも、だからこそ「人の話も同じように読み解こう」としてしまう。人間の言葉って、そんなに明確じゃないのに、「この表現、ちょっと危ないな」「曖昧すぎる」と反応してしまう。この読み込み癖、良くも悪くも、もう身体に染みついてしまってます。
細部に潜むリスクを見逃せない習性
「この一文があるだけで契約は無効になるかも」そんなケースを何度も経験してきました。だから、細かいことに敏感になってしまうんです。人との会話でも「それ、具体的には?」「いつ?どこで?」と詰めてしまう。結果として、相手が引いてしまうこともあります。自分では「誠実に確認してる」つもりなのに、周りから見たら「しつこい」「疑ってる」と思われてしまうんですよね。
プライベートでも「疑いグセ」が抜けない
趣味で地域のボランティアに参加したとき、打ち合わせで「ざっくりこんな感じでいきましょう」と言われたんです。その瞬間、私は「ざっくりって何?どこまでがOKなの?」と喉まで出かかりました。でも、そこで言ってしまうと面倒な人扱いされるとわかっている。こうして心の中で一人モヤモヤするわけです。気疲れしますよ、ほんと。
何気ない会話でも条件反射のように疑ってしまう
この前、事務員さんが「お昼食べに行ってきますね」と言ったとき、「あれ?今月もう外食4回目じゃない?」なんて思ってしまった自分がいて、ゾッとしました。そんなこと、本来どうでもいいはずなのに、何かが引っかかる。それが癖になってしまっている。信用したい、でも反射的に疑ってしまう。これはもう反省しかありません。
信頼関係と法的文書のあいだで揺れる
法的な裏付けは大事。でも、信頼ってもっと曖昧で、不確かで、それでもあたたかいものなんだと思います。最近ようやく「条文で守れない関係もある」と気づいてきました。すべてをリスクで管理しようとすると、心が疲れます。もっと「信じてみる勇気」を持つのも必要なんじゃないか。そんなことを、ひとり考える時間が増えました。
「書いてなきゃ意味がない」は正しいか
仕事では「書いてあるかどうか」が全てです。それがなければ、誰も守れないし、責任も取れない。でも、プライベートでは違うんですよね。約束の証拠なんてなくても、「この人ならやってくれる」と思える信頼がある。それが壊れてしまっていたから、気づいたときには孤独感だけが残っていました。
でも、人付き合いにそんな契約書は存在しない
人間関係には、印鑑もなければ証拠もありません。だからこそ、信じるしかない部分がある。でもそれが今の自分には難しい。「じゃあどうすればいい?」と聞かれても、正直答えはわかりません。ただ、「疑いから入るのをやめよう」と心がけるだけでも、少し楽になれる気がしています。
損得勘定ばかりの自分が嫌になる
「この人と関わって得か損か」そんなことばかり考えていた時期がありました。損しないように、傷つかないように。でも、それって結局、自分が誰ともちゃんと関われてなかったってことなんですよね。損を恐れて得られなかったものの方が多かった。だからこそ、もう少し損をしてもいいから、誰かを信じてみたいと最近思うようになりました。
それでも、人を信じたいと思えた瞬間
ある日、事務員さんが帰り際に「先生って、言葉はきついけど、人にすごく気を使ってますよね」と言ってくれたんです。そんな風に見えてるとは思ってなかったから、驚いたと同時に、少し泣きそうになりました。「信じてくれてる人もいるんだな」と思えた瞬間でした。だからこそ、自分も誰かを信じたい。そう思えたんです。
仕事仲間との些細なやりとりが救いに
毎朝、事務員さんが「おはようございます」と笑顔で挨拶してくれる。それだけで救われることがあります。彼女は契約書を交わしたわけじゃない。でも、日々の態度で信頼を築いてくれている。そういう積み重ねの方が、実は何より強い信頼になるんだと、今さら気づいています。
事務員さんの一言が胸に刺さった日
「先生がいちいち細かくて面倒なこと言うの、正直疲れる時もありますけど、それって全部私を守ろうとしてくれてるってわかってます」——この言葉は、一生忘れないと思います。自分がしてきたことが、誰かにちゃんと伝わっていた。それが嬉しかった。やっと、「信じられる側の人間」になれたような気がしました。
「人って、条文通りには動かないけど、あったかい」
仕事では条文に従う。でも、人間はその通りにはいかない。むしろ、感情や状況で右にも左にもぶれる。でも、その曖昧さこそが人間らしさであり、優しさなんだと思います。書面では測れない信頼関係、それを少しずつ築いていくのが、これからの自分の課題です。
結論:書面を超えた信頼を、少しずつ取り戻す
契約書は大切です。でも、人との関係においては「信じてみる」ことの方が大事な場面もある。裏切られるかもしれない。損をするかもしれない。それでも、「この人を信じてみよう」と思えること、それが人間らしさなんだと思います。職業病は簡単には治らないけれど、心のどこかに柔らかい部分を残しておく努力だけは、これからもしていきたいと思います。