なぜ財産ゼロで揉めるのか
「財産はほとんどないんですけど、ちょっと揉めてまして…」という相談、もう何度聞いたか数えきれません。お金がないのに揉める?そんな疑問は通用しません。むしろ少額だからこそ、譲れないプライドや感情がむき出しになる。相続というのは、数字だけじゃ語れない、人間の感情がぶつかる現場だと痛感させられる瞬間です。地元の古びた実家をめぐって、兄弟が口もきかなくなるという話も珍しくありません。財産の額よりも「納得できるかどうか」が争いの本質なんですよね。
相談者の「揉めてます」は本気か
「ちょっと兄と話が合わなくて…まあ大したことないんですが」という前置きを信じてはいけません。その“ちょっと”の裏には、何年にもわたる確執や、親の介護に対する不満、兄弟間の役割分担のズレといった感情が折り重なっていることが多いです。先日は、通帳に数万円しかないという状況で、姉妹が声を荒げて言い合っていました。「あのとき私ばかりが大変だったのよ!」と。これは単なる遺産の問題ではなく、人生の精算を感情ごとやっているんです。
金額の問題じゃない感情のもつれ
たとえば、ある相談者は「財産は仏壇しかありません」と言っていたのですが、その仏壇の行き先を巡って親族が真っ二つ。宗派やお参りの頻度、誰が管理するかといった問題が火種になりました。仏壇そのものはお金に換えれば数万円かもしれませんが、そこには亡き両親への思いや、家を守ってきたという誇りが乗っている。だからこそ揉める。「あいつは何もしてこなかったのに、なんで持っていくのか」といった感情のぶつかり合いは、金額では説明できません。
過去の恨みが今ここで爆発する
「小学校の頃からあの子はずっと優遇されていた」――そんなセリフを60代の人が真顔で口にするのを、私は何度も見てきました。相続の場では、普段は見せない顔が露わになることが多いです。仲の良かった兄弟が、最後には他人よりも険悪な関係になることもあります。誰かが我慢してきた想い、誰かが気づかなかった感謝、そういったすれ違いが一気に爆発するのが、相続の瞬間です。だからこそ、「財産がないなら揉めないだろう」という見通しは、甘すぎるんです。
現場でよくある揉めパターン
揉めごとのきっかけは、本当に些細なことから始まります。土地の名義、仏壇、家具、手紙、写真…「そんなもので?」と思うようなものが、争いの火種になることは日常茶飯事。中には「納骨のタイミングが合わないから」と感情がこじれ、そこから絶縁に至るケースもあります。形式上の手続きはスムーズでも、裏で感情が泥沼化していることも少なくありません。事務所でその空気を感じ取るたび、なんとも言えない疲労感に襲われます。
形見の時計が争点になる日
数年前、形見の古い腕時計をめぐって兄弟が激しく対立した案件がありました。その時計、どう見ても価値があるとは思えない…でも「親父が最後まで大切にしてた」「一緒に釣りに行ったとき着けてた」と、思い出が詰まっている。結局は「思い出の強さ比べ」になってしまい、話が平行線に。兄は涙をこぼし、弟は机を叩き、私は沈黙するしかありませんでした。形見にまつわる揉め事は、心の傷に触れる場面でもあるのです。
あれは私がもらうはずだったから始まる泥沼
「あれ、私がもらうって話だったのに」――このセリフ、何度聞いたか分かりません。口約束や家族の中だけのなんとなくの合意って、実際には証拠も根拠もない。でも本人たちはそれを信じて生きてきた。いざ相続となって「そんな話、聞いてない」となると、裏切られたような気持ちになるんです。これはもう信頼関係の崩壊です。登記の処理よりも、気まずさや怒りをどう受け止めるかの方がよほど厄介なんですよね。
不公平感の積み重ねが呼ぶ争い
不公平って、現実の配分よりも「そう感じるかどうか」が重要だったりします。子どもの頃の扱い、親の介護の負担、帰省の頻度…そういうのが積もり積もって「結局、自分は損をしてきた」と感じると、ちょっとした相続の分け方にも納得できなくなる。実際、ある姉妹が「いつも私ばかりが我慢してきた」と言い合って、財産は二人で均等なのに決着までに数か月かかりました。公平さって、人によってまったく違うんです。
司法書士が踏み込めるラインとは
こういった揉め事の相談があるとき、司法書士としてどこまで踏み込むか、悩ましいところです。法的な部分は当然処理します。でも感情面に深入りしすぎると、逆に信頼を失うこともあります。「あなたはどっちの味方なんですか?」なんて言われた日には、胃が痛くなるどころじゃない。感情の中立って、本当に難しいんですよ。
遺産分割の相談に潜む地雷
たとえば遺産分割協議書を作るとき。「とりあえず全員の印鑑をもらえば終わる」と思っている方も多いですが、地雷がそこら中に埋まっています。誰がどこに住むのか、預貯金はどこで精算するのか、口約束になってる部分はどうするか…ちょっとした言葉の選び方で怒りを買うこともあります。「文章に書くと角が立つ」と言っても、書かなきゃ後で揉める。そのジレンマの中で、毎回ヒヤヒヤしながら文案を練っています。
登記はできても心の整理はできない
法務局に書類を出して登記が完了しても、それで相続が終わったとは言いきれません。むしろそこから家族の亀裂が表面化することも多いです。登記は形だけのゴールであって、感情的な着地点は人それぞれ。とくに遺言がない場合、「なぜあの人はそう考えたのか」が永遠に分からないまま、疑心暗鬼が残ることも。法的処理はできても、心のわだかまりは残る…それが現実です。
家族の亀裂に言葉を失う瞬間
ある日、相談後に「これでもう兄とは一生会わない」とぽつりと言った方がいました。そのとき私は、何も言えなかった。お互いに許し合えば済むのかもしれない。でも、それまでの積み重ねがあるからこそ、簡単にはいかない。相続って、家族の形が変わる儀式でもあるのかもしれません。登記簿の上では完了しても、人間関係は完了しない。そんな場面に立ち会うと、ただただ静かに話を聞くしかできない自分に無力さを感じます。
それでも話を聴く役目がある
愚痴でも、怒りでも、涙でも、司法書士という仕事は“聴く”ことから逃げられません。登記だけやっていればいいわけじゃない。むしろ、話を聴けるかどうかで信頼が決まることが多いです。そんな毎日に少し疲れることもありますが、やっぱり「ありがとう」と言われると救われます。今日も、事務所で誰かの怒りや悲しみを受け止める準備をして、コーヒーを一杯飲んで机に向かう…そんな日々です。
愚痴を受け止めるのも業務の一部
「ほんとに大変だったんです!」という愚痴を、うんうんと頷いて聴いていると、「先生は優しいですね」と言われることがあります。いや、優しいというか…断るタイミングを逃してるだけです。でもその愚痴を聴くことが、誰かの気持ちを整理する一歩になるなら、無駄じゃないと信じたい。とはいえ、土曜日の夕方に延々と1時間、兄の悪口を聞かされたときは、正直ちょっとしんどかったですけどね。
事務員さんの方が共感上手なときもある
うちの事務員さん、淡々としていますが、実は聞き上手です。私が聞いても怒っていた相談者が、事務員さんと話した後には少し落ち着いていた…なんてこともよくあります。私は元野球部のせいか、どこか理屈っぽくなりがちで、つい正論をぶつけてしまう。でも、人は正論だけでは動かないんですよね。ときに冷静で優しい“聞き手”の存在が、事務所全体を救ってくれることもあります。
あの人なら聞いてくれるという信頼と重圧
「この人ならちゃんと聴いてくれると思って」と言われること、少なくありません。信頼されているのはありがたい。でも、全部を受け止めるにはこちらも人間です。疲れている日、気持ちに余裕がない日、そういうときに相談を受けると、自分自身が壊れそうになります。それでも「司法書士って、そういうものだろう」と思ってしまうのは、もしかしたら自分の意地かもしれません。今日も、また一つ愚痴を聴きながら、静かに書類に印を押します。