子どもと話す時間が減った日々にふと思うこと

子どもと話す時間が減った日々にふと思うこと

ふと気づく 子どもとの会話が減っていた

「あれ、最後にちゃんと子どもと話したのはいつだったっけ?」ある日の帰り道、ふとそんな考えが頭をよぎった。昼間は依頼者の対応、電話、登記の処理、そして書類作成に追われ、気がつけば夜。家に帰ればもう子どもは寝ている。起きていたとしても、こちらにはもう会話をする余裕がない。こんな日々を送っていたら、気づかぬうちに子どもとの距離ができていた。話しかけられても生返事、会話をする時間も気持ちもどこかに置き忘れてしまっていた。司法書士の仕事は細かく、神経を削る。だからこそ、家庭での自分はどうしても「抜け殻」になってしまいがちなのかもしれない。

毎日目の前の仕事に追われて

田舎の司法書士事務所は派手さはないが、とにかく忙しい。事務員もひとりしかおらず、相談が重なると、昼食すらろくに取れない日もある。書類の不備、急ぎの依頼、急な来所。気がつけばスマホの通知に「帰ってきたら一緒にゲームしようよ」と子どもからのメッセージ。それを見たのは23時過ぎ、もちろんもう子どもは寝ている。こんな生活が続くと、自分の中の「父親」の部分が少しずつ薄れていく気がしてならない。司法書士としての責任を全うすることと、家庭での役割を果たすこと、そのバランスを取るのがこんなに難しいとは思っていなかった。

気がつけば夜も遅く 帰って寝るだけの生活

「今日は遅いね」と妻が言うが、それにすらろくに返事ができない。パソコンの前で凝り固まった肩、もう何も考えられず、風呂に入る気力もないままベッドに倒れ込む。朝は朝で慌ただしく、顔を合わせるだけ。家庭にいる時間が「休息」ではなく「空白」になってしまっている。この繰り返しが続くと、家族の中で自分の存在が薄れていく気がする。何も言われていないのに、どこか責められているような気がするのだ。

誰のために働いてるのかが分からなくなる瞬間

元野球部だった自分は、勝つために、仲間のために汗を流していた。その感覚が染みついているのか、「誰かのために頑張る」ことには慣れているはずだった。けれど、今の自分は誰のために働いているのだろうか?クライアント?事務所?家族?そのすべてのはずなのに、実感が持てない。話さなくなった子どもの顔を見るたびに、遠くなった気がして、どこか胸が苦しくなる。

あの頃はもっと笑っていた気がする

数年前の写真を見返すと、無邪気に笑っている子どもと、それに笑顔で応える自分がいた。あの時は、時間があったのか、それとも気持ちに余裕があったのか。いや、どちらでもない。ただ「話すこと」を自然にやっていたのだと思う。今はその「自然さ」が消えてしまっている。会話は意識しないと発生しないものになってしまった。

子どもの「今日ね」にちゃんと返事していたあの頃

「今日ね、学校でね…」と子どもが話しかけてきた時、昔は自然と「どうだったの?」と返していた。でも今は、タイミングを逃すともう二度と聞けない。あの一言が、どれだけ子どもにとって大事だったのか。日常の中で交わす何気ない言葉が、親子の関係の土台になっているのだと、今になって痛感する。

忙しさにかまけて 聞き流してしまった言葉たち

「見て見て」「聞いて聞いて」と言われても、「後でね」「今ちょっと忙しい」で返してしまう。意図的に冷たくしたわけじゃない。でも、その積み重ねが、子どもにとっては「どうせ話しても聞いてくれない」に変わっていく。気がついた時には、もう話しかけてくれなくなっていた。

会話がないことに罪悪感を覚える夜

寝る前に、子どもの寝顔を見ると、どうしても胸が痛くなる。「今日は話せなかったな」「もっと聞いてやればよかった」そう思っても、もう時間は戻らない。司法書士という仕事柄、「間違いを取り返す」ことは難しい。でも家庭の中では、取り返しのつかない後悔だけはしたくないと思うのだ。

ただの沈黙がこんなに重いなんて

家の中で、テレビの音だけが流れている夕方。子どもはリビングにいるが、会話はない。こちらが声をかけなければ、何も始まらない。それが日常になると、沈黙が当たり前になってしまう。でも、それは本当に望んでいた関係だろうか。言葉を交わすことが、どれほど心をつなぐ行為だったのか、いまさらになって感じている。

会話しようとする勇気さえ削られる日々

「話しかけたら嫌がられるんじゃないか」と、妙な遠慮をしてしまう。自分が家で「疲れてるオーラ」を出しすぎたせいか、子どもも空気を読んで話しかけてこない。優しさなのか、距離なのか、その境界がわからない。けれど、やはり親から歩み寄らなければ、と思う。

親らしいこと 何ひとつできていない現実

学習机の上にあるプリント、学校からの手紙、成績表。どれも読まずに積まれていた。親として必要なこと、形式的にはできている。でも、「関わる」という根っこの部分ができていない。それを直視すると、自分の存在って何だったんだろうと思えてくる。

「おかえり」と言える人がいるだけで幸せなのに

家に帰って「おかえり」と言われるだけで救われる。だったら自分も「おかえり」と言えばいい。ただそれだけのことが、どうしてできないのか。言葉にすることは、ほんの一歩の勇気。でもその一歩が踏み出せないほど、日々に押し流されていた。

それでも司法書士としての現実は変わらない

登記の期限は待ってくれないし、相談の電話も次々に鳴る。依頼者の期待に応えるには、時間と集中力がいる。事務所を回す責任もあるし、事務員さんにも迷惑はかけたくない。結局、家庭よりも仕事を優先してしまう自分がいる。でも、これは逃げではなく、立場上の現実なのだ。

仕事は待ってくれないし 誰かが代わってくれるわけでもない

体調が悪かろうが、精神的に落ち込んでいようが、案件は進めなければならない。独立して仕事をするというのは、そういうことだ。休みが取れないのも、すべては自分の責任。だからこそ、子どもと話す時間が減るのも、誰のせいでもない。でも、分かっていても割り切れない気持ちが、ずっと心に残っている。

事務員さんひとりで回るような業務じゃない

本当は、もっと人を雇いたい。でも地方の事務所では経費も限られている。気がつけば、全部自分で抱え込む体制になってしまった。そのツケが、家庭に影を落としているのかもしれない。事務員さんが申し訳なさそうに「今日はお先に失礼します」と言うたび、自分の無力さを噛みしめる。

会話を取り戻すためにできる小さな工夫

完璧じゃなくてもいい。たった一言でも、会話は始まる。「今からでも遅くない」そう信じて、できることから少しずつ始めている。仕事の帰りにコンビニで子どもの好きなお菓子を買って帰ったり、「今日はどうだった?」と聞いてみたり。小さなことで、空気が少しだけ和らぐこともある。

たった一言でもいい 「今日どうだった」の重み

思い切って「今日、学校どうだった?」と聞いてみたら、最初は「あんまり…」だったけど、次第にぽつぽつと話してくれた。ああ、会話ってこうやって戻ってくるんだと実感した。言葉はいつでも届くわけじゃない。でも、届けようとする意思があれば、きっとまたつながれる。

時間はないけど 心を向ける余裕は持てるかもしれない

スマホを置いて、テレビを消して、ただ顔を見て「どうだった?」と聞く。それだけで、子どもの目がこちらに向く瞬間がある。その時間は5分でもいい。たった5分でも、話ができれば、心は近づく。忙しくても、心だけは奪われないようにしたい。

完璧な親なんていない だから少しだけ立ち止まる

子どもと話せない自分を責めることもある。でも、完璧じゃなくていい。失敗してもいい。問題は、そこに気づいたあとどう動くか。司法書士としてじゃなく、「ひとりの父親」として、できることを少しずつ取り戻していきたい。

会話は義務じゃないけど 信頼の根っこになる

「話しかけてくれる」というだけで、子どもは安心する。そこに返事があることで、信頼は育つ。司法書士として、信頼の重みは痛いほどわかっているつもりだったけれど、家庭の中でそれを軽視していたのかもしれない。今からでも、遅くはない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。