デスクに積み上がる書類が心を圧迫する
朝、事務所のドアを開けて、まず目に入るのはデスクの上にそびえる書類の山。まるで毎日が「昨日の続き」じゃなくて、「昨日の倍」から始まっているかのような感覚になる。処理したはずの案件が、なぜか増殖して戻ってくる。書類という物体には重さがないはずなのに、不思議と胸のあたりがずっしりと重くなるのはなぜだろうか。紙の束の奥には、依頼人の不安、急かす声、時には怒りさえ詰まっている。こちらの事情なんてお構いなし。机の面積以上に、心のキャパシティが削られていく。
午前九時、書類の山が今日も出迎える
「おはようございます」と事務員が声をかけるその横で、私はすでに溜息をついている。机の上の山は昨日見たはずの光景とまったく同じ。いや、むしろ高くなっている気さえする。開封もしていない封筒が並び、その隙間には付箋が差し込まれた書類が何枚も刺さっている。優先順位をつけようにも、すべて「急ぎ」と書かれていて、どこから手をつけたらいいか分からない。この瞬間が、一日の中で最もやる気を失う時間かもしれない。
昨日片付けたはずのはずが、また元通り
夕方までに3件の登記申請を終え、1件の相談に応じ、未読のメールをすべて処理した。昨日の夜は確かに「今日は頑張った」と思ったはずなのに、朝になれば何事もなかったかのように書類が増えている。タイムリープかと錯覚するほどの再現性。事務所に忍び込んで書類を増やす妖怪がいるんじゃないかと、半分本気で思う時もある。努力が視覚的に報われないって、けっこう心に来る。
「とりあえず置いておきますね」の破壊力
事務員の「先生、これ今日中に確認お願いします」が何気なく添えられた書類束。「とりあえず机の上に置いておきますね」という言葉の背後には「私は触りませんのでよろしく」の意志がにじんでいる。それを責める気持ちはない。むしろ私の立場上、それを受け止めるしかない。でも、午前中に3回もそのセリフを聞くと、さすがに心が折れる。誰か、受け皿をください。
机が埋もれると、思考も埋もれていく
視界の8割が紙に覆われていると、思考の通り道も狭くなる。資料を探しているのか、何を探しているのか分からなくなって、結局新しいコピーを取って済ませる。そんなことをしているうちに、さらに紙が増えるという悪循環。情報整理のための時間が欲しいのに、その時間すら書類が奪っていく。業務効率?なんだそれ、美味しいのか。
見えないと、やる気も見えなくなる
一度、机を完全に片付けてみたことがある。何もないデスクは、まるで図書館の閲覧席のようで、久しぶりに思考がスムーズに流れた。だが、それもつかの間の平和。次の日にはまた混沌が戻ってくる。見通しが悪いと未来も見えにくくなる。目の前の書類が見えなくなるほど重なってくると、「明日やろう」が正当化されていく。でも「明日」は来るたびに、もっと大変になって帰ってくる。
「どこに何があるか分かる」はただの強がり
「大丈夫、どこに何があるかは自分で把握してるんで」と言ったことがある。でもあれは完全に虚勢だった。実際には探す時間の方が長くて、見つけられないとイライラして、余計に仕事が進まない。そんな自分にまた落ち込む。片付けができないことが、できるはずの仕事すら遠ざけていく感覚。ぐちゃぐちゃの机は、心の乱れそのものだ。
感情が先に音を上げる日もある
体より先に心が「もう無理」と言ってしまう日がある。そんな日はたいてい、書類の多さそのものよりも「なんで俺ばっかり…」という気持ちに支配されている。疲れていることに気づかないほど毎日が詰まっていて、ふとした瞬間に涙が出そうになる。別に泣きたいわけじゃない。ただ、どこかに逃げたくなるのだ。
やる気がどこかに置き忘れてきた気がする
昔はもっと熱意があった。独立したばかりの頃は、遅くまで残っても平気だったし、仕事が来るだけありがたかった。でも、今は違う。処理しても処理しても終わらない感覚と、「誰も気づいてくれない」孤独感が、やる気を根こそぎ奪っていく。ふと「このまま全部やめたらどうなるんだろう」なんて考えてしまう日がある。そんな時は、自分の中にいる「逃げたい自分」と静かに向き合っている。
「今日これ無理だな」と思ってからの八時間
9時の時点で「今日はもう無理」と思っても、時計は無慈悲に進み、案件はどんどん積み上がっていく。気持ちのリセットをする時間もないまま、ただ流されるように仕事をこなしていると、自分が機械のように感じる。表面上は冷静を装っていても、内側では叫び声が渦巻いている。だけど、誰にも言えない。言ったところで「みんな忙しいよね」で終わるのが関の山。
事務員さんの溜息が地味に効く
疲れているのは自分だけじゃない。事務員さんの溜息がそれを物語っている。でもその音を聞くと、なぜか自分の責任のように感じてしまう。「もっと効率よく指示出せばよかったかな」「自分が溜め込んだせいかな」と、責任感が変な方向に働いてしまう。優しい人ほど、こういうふうに自分を責めがちなんじゃないかと思う。
司法書士という肩書きの裏側で
「司法書士」という肩書きは、外から見ると安定や信頼の象徴のように見えるかもしれない。でも実際には、ただただ雑務と責任にまみれた日々。時に感謝され、時にクレームを受け、常に気を張り続けている。肩書きが人を守ることはない。むしろ、縛ってくることの方が多い。
華やかでも自由でもない現実
「士業っていいですよね、自由そうで」と言われたことがある。自由?どこがだ。書類に追われ、顧客に気を使い、ミスは許されず、毎日が秒刻みのスケジュール。華やかさなんて幻想だ。自分で決めた道だけど、たまには誰かに「大変ですね」って言ってもらいたい日もある。
「先生」なんて呼ばれるたびに心がずれる
「先生」って呼ばれると、距離を感じる。悪気はないのは分かっているけど、その響きが時には自分を孤立させる。相談者の期待に応えようとするほど、プレッシャーも増える。肩書きに見合う自分でいなければならない、という無言の圧力。それに押しつぶされそうになることだってある。
孤独と重圧はセットメニュー
誰にも弱音を吐けない職業。それが司法書士だと思う。間違いが許されない仕事だからこそ、常に完璧を求められる。だけど人間だから、疲れるし、悩むし、時には逃げたくなる。なのにその気持ちを吐き出せる場所がない。孤独と重圧。それがこの仕事の「標準装備」だ。
元野球部でも打てない球がある
高校時代、野球部でどんな速球でもバットを振っていた。でも、今の人生の球は変化球ばかりで、どこに来るか分からない。試合なら「次がある」けど、この仕事には交代もリリーフもない。ミスはすべて自分の責任。どんな球でも、最後は自分が受け止めるしかない。
感情のコントロールは筋トレでは身につかない
野球部の頃は、悔しさも怒りも走って発散できた。でも今は、感情の出口が分からない。疲れた時に誰かに八つ当たりしたくなることもあるけど、そんなことはできない。感情を飲み込み続けていると、いつかどこかが壊れるんじゃないかと思う。筋肉じゃどうにもならないものが、ここにはある。
空振りしても、次の打席がやってくる
うまくいかない日もある。判断を誤ることもある。でも、それでもまた次の依頼は来る。逃げることはできないけど、もう一回だけ打席に立ってみようと思う。それだけで、なんとか今日を終える理由になる。毎日は試合の連続。完封負けの日も、たまにヒットを打てる日もある。
それでも前に進む理由がある
正直、もう嫌だと思う日もある。それでもやめない理由は、人の顔が浮かぶからだ。「ありがとう」と言われた瞬間、すべての疲れが報われるような気がする。大袈裟かもしれないけど、その一言が、この仕事を続ける力になっている。
誰かの「助かった」のためにやっている
電話口で不安そうだった依頼者が、最後に笑顔で帰っていく。その瞬間があるから、この仕事は捨てられない。書類だけ見ていると、心が乾いていくけど、その向こうにいる「誰か」を思い出せた時、また少しだけ頑張れる。たぶん、そうやって今日も書類の山を崩していくんだと思う。
書類の向こうにいる人の顔を想像する
ただの書類じゃない。その一枚一枚の向こうに、人がいる。家を買う人、相続で悩む人、起業に挑む人。その一人ひとりの物語に関われることは、本当はすごく尊いことなんだと思う。だけど、毎日そのことを忘れてしまうくらい、現実は忙しい。だから、立ち止まって顔を思い浮かべる。それが、初心に返る唯一の方法。
それが一番の報酬になる日もある
高額報酬よりも、豪華な差し入れよりも、「助かりました」「ありがとう」「先生のおかげです」という一言が一番心に残る。その言葉に支えられて、今日もなんとか立っている。書類に押しつぶされそうな日は、思い出してほしい。自分がどれだけ誰かの役に立っているかを。