休日の朝に目覚ましが鳴った気がしただけで疲れてる

休日の朝に目覚ましが鳴った気がしただけで疲れてる

目覚ましが鳴った気がして飛び起きた朝

土曜の朝、時計を見るとまだ6時前。けたたましい音で目覚めたような気がして、反射的に体を起こす。だが、目覚ましは鳴っていない。ただの錯覚。それなのに、心臓はバクバクしている。体は完全に「仕事モード」に入ってしまっていた。実際には休みなのに、脳が「平日」だと勘違いしているらしい。これが何度も続くと、さすがに笑えない。せっかくの休日が、たったその一瞬で「疲れた一日」へと変貌する。まるで休みの入り口で心を閉ざされてしまう感覚。いったい、いつからこうなったのか。

土曜日の朝に感じるあの焦り

普段、平日の朝は7時に目覚ましをセットしているが、金曜日の夜だけは「明日は寝坊してもいい」と自分に言い聞かせて布団に入る。でも、土曜の朝、何の前触れもなく目が覚める瞬間、「やばい、寝過ごした」と焦ってしまう。あの瞬間の感覚は独特だ。まだ眠れるはずの時間なのに、脳が「ミスした」と判断しているのだ。目覚ましを確認しても鳴っていないし、予定もない。それでも、焦りと緊張が残る。結果、寝直そうとしても、もう眠れない。何のための休日なのか、自分でも分からなくなってくる。

疲れているのに心が休まらない理由

たぶん、身体の疲労よりも心の緊張が勝っているのだろう。常に「何か忘れてないか」「あの登記、ちゃんと処理できてるか」と気にしているせいで、完全にはスイッチが切れない。メールは届いていないか、急ぎの連絡はないか、無意識にスマホを手に取る。心は24時間営業状態。休みの日ですら、頭の中は仕事でいっぱい。そんな日が続けば、当然「休んだ気がしない」という感覚が常態化する。気づけば、休みも「作業前の待機時間」みたいになっていた。

司法書士という仕事のスイッチが切れない

司法書士という職業は「人の人生の節目」に関わる仕事だから、間違えたらいけない、失礼があってはならないというプレッシャーが常にある。だからこそ、たとえ休日であっても完全には気が抜けない。ちょっとしたミスが、クレームや再登記、最悪の場合は損害賠償にまで発展しかねない。そう思うと、どこかで「自分を監視している自分」がいる気がする。時計の針が止まっても、自分の緊張は止まらない。

事務所の電話が鳴る幻聴すら聞こえてくる

これは冗談ではなく、実際に電話の音が聞こえた気がして飛び起きたことがある。誰からも電話なんて来ていない。幻聴か?と自分を疑いたくなるけど、それだけ気が張っている証拠だろう。平日は1人事務所だから、電話も郵便も宅配も全部自分で対応する。その音が、休日の静けさの中で「脳内再生」されてしまうのだ。家でくつろいでいるつもりでも、意識の一部が常に「仕事の応対」に向けられている。

休みの日でも常に「依頼者」が頭に浮かぶ

登記の期限、遺言書の作成スケジュール、依頼者の事情。それらがまるで“浮かぶように”頭の中を通り過ぎる。依頼者の顔や言葉が、ふとした瞬間に脳裏によみがえる。土曜日の昼下がり、コーヒーを淹れていても「あの人、今日提出した資料ちゃんと確認してるかな」とか考えてしまう。職業病といえばそれまでだけど、こういう思考のループが心の回復を妨げている気がしてならない。

「休み明けにはこれを片付けねば」の呪縛

例えば、月曜に完了させるべき登記があると、その作業は月曜にやればいいはずなのに、土曜のうちから頭の中で段取りを始めてしまう。「あの添付書類、もう一回見直した方がいいかも」とか、「月曜の朝イチ、法務局混むかな」とか。まだ起きてもいない出来事への準備で頭がいっぱいになる。休みが休みじゃなくなる原因は、たいていこの“未来の仕事”への予習だ。これを止められるスイッチがあれば欲しい。

自分で自分を追い詰めている感覚

この仕事を選んだのも、自分で事務所を開いたのも、自分。だからこそ、「誰のせいにもできない」というプレッシャーが重くのしかかる。サボれば自分に返ってくる。体調を崩しても、代わりはいない。そういう責任感が、自分の首を締めている。たまに「もっと気楽にやればいいのに」と人に言われるけど、それができるならとっくにやっている。休めないのではなく、休む許可を自分で出せていないだけなのかもしれない。

元野球部の性分が抜けない

高校時代、野球部で毎朝5時半起き、真夏でも雨でもグラウンドに立っていた。あの頃に染みついた「努力こそ正義」「サボるやつはダメだ」という価値観が、いまだに消えない。司法書士の仕事を始めてからも、休みを取ることに罪悪感を覚えてしまうのは、この“元野球部気質”のせいかもしれない。身体が悲鳴を上げていても「まだ頑張れるだろ」と自分に言い聞かせてしまう。

「サボるのが怖い」という思い込み

誰も責めていないのに、休むとどこかで「自分は甘えている」と感じてしまう。特に一人で事務所を運営していると、誰にも甘えられないからなおさらだ。サボると一気に信用を失うんじゃないか、依頼者に見限られるんじゃないか。そんな思考が先に立って、結果的に無理をしてしまう。「サボった罰」が来るような気がしてならないのだ。合理的に考えれば、そんなことはないと分かっているのに。

頑張らないと誰にも認められないと思っていた

昔から、評価されるには「頑張ること」が条件だった。試験に受かるのも、開業するのも、自分で全部準備してきた。だから「頑張っていない自分」は価値がないように感じてしまう。たとえ事務所がまわっていても、心のどこかで「もっとやらないとダメだ」と思ってしまう。誰に求められているわけでもないのに、ひたすら自分に鞭を打つ。それが正しいと思い込んでいた。でも、最近は少しずつ「それ、しんどくないか?」と自分に問いかけるようになってきた。

結果を出さないと存在価値がない感覚

結局、「数字」や「成果」がないと、自分の存在を肯定できないところがある。何件処理した、何人から感謝された、どれだけ売上を出した。それがないと、「今日一日、何してたんだっけ?」という空虚感に襲われる。誰にも見られていない仕事でも、自分が成果を感じられないと苦しい。でも本当は、もっとシンプルに「今日はゆっくりできてよかった」でいいはずなのに。

周囲に弱音を吐けなかった過去

相談する相手がいなかったというより、「弱音を吐く自分が嫌だった」という方が正確かもしれない。特に男性で独身で、しかも自営業となると、どこかで「頼れる自分でいなきゃ」という思い込みが強い。でも本当は、しんどいことなんて山ほどある。弱音を吐いたからといって、信頼を失うわけじゃない。そう気づいたのは、ようやく最近のことだった。

独身の寂しさが休みに襲いかかる

平日は忙しくて感じない孤独も、休日になるとじわじわと迫ってくる。特に用事がない日、朝から晩まで誰とも会話しないまま終わることがある。ふとした時に「自分って何やってるんだろう」と空虚になる。これがもし、家庭があったら違うのかな、なんて考えたりもするが、後悔ではない。ただ、ちょっとだけ寂しいだけだ。

誰とも喋らずに過ぎる日曜日の重さ

日曜の夜になると、「誰かと話したかったな」と思うことがある。人恋しいというより、「人間らしい時間」を過ごしたかったのかもしれない。テレビをつけて、ニュースにひとりツッコミを入れてみても、空しくなる。だから最近は、なるべく買い物に出たり、顔見知りの店員さんと雑談したりするようにしている。ほんの数分のやりとりでも、救われることがある。

癒やしを求めてペット動画ばかり見てしまう

最近の癒やしは、YouTubeでひたすら猫や犬の動画を見ること。無防備に寝てる姿や、ご飯を必死に食べてる姿を見ると、なぜか涙が出そうになる。あの純粋さ、無条件の安心感。自分にとっては、そういう無邪気な存在が足りていないのかもしれない。ふと、「自分もこんな風に誰かに甘えたかっただけなのかも」と思う瞬間がある。

それでもたまに笑える瞬間がある

こんなに疲れてても、こんなに一人でも、それでもふと笑ってしまう瞬間がある。その瞬間のために、また頑張れてしまうのかもしれない。依頼者の一言、事務員の失敗談、思いがけない感謝の言葉。どれも大したことないようで、自分にとっては大きな救いになる。だからまだ、やめられない。

事務員とのたわいもない会話に救われる

「先生、今日のお弁当忘れてますよ」そんな一言でも、妙にあたたかく感じることがある。仕事の話ばかりじゃなくて、ドラマの話や天気の話ができる相手がいるだけで、空気が柔らかくなる。自分が思っている以上に、人とのやりとりが心をほぐしてくれるのだと、日々実感している。

ふとした依頼者の感謝の言葉に涙が出る

「本当に助かりました。先生にお願いしてよかったです」そんな言葉をもらった日、家に帰って一人になってから、なぜか涙が出た。こんなに嬉しいものかと、自分でも驚いた。その瞬間、「まだもう少し頑張れるな」と思えた。疲れていても、間違いなく意味のある仕事をしているんだと、ようやく信じられた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。