朝の静寂に届いた一本の電話
午前九時前。ようやくコーヒーに口をつけた瞬間、事務所の電話が鳴り響いた。出るかどうか一瞬迷ったが、サトウさんの冷たい視線に背中を押され、受話器を取った。
「あの……亡くなった父の登記が、なんだかおかしい気がして……」と、か細い女性の声が聞こえた。声の主は山口美月。父親の家を相続したはずが、登記簿の名義が違っているという。
相続登記でのミスか、それとももっと別の何かか。やれやれ、、、今日もまた厄介な匂いがする。
依頼人の不安げな声
話を聞く限り、美月さんの父が亡くなったのは三ヶ月前。相続人は彼女一人で、他に兄弟姉妹はいないという。しかし登記簿には「山口明男」の名義が新たに記されていた。
「それ、あなたのお父様のお名前では?」と尋ねたが、違うという。父は「山口弘」だときっぱり言い切った。漢字も全く違う。
司法書士としての職業病か、こういう名前の違いには敏感だ。だが、よくある単純な誤記である可能性もある。慎重に確認を進めるしかない。
古びた家と謎の名義人
現地調査を進めると、古びた平屋の家が見えてきた。庭には苔むした石灯籠があり、時間が止まったかのようだった。
登記簿謄本を改めて確認すると、確かに「山口明男」名義で相続が完了していた。相続原因は遺言書によるもの。これが奇妙だった。
遺言書での相続なら、美月さんが知らないはずがない。しかもその遺言書、提出された公証役場が市外だった。
登記簿に刻まれた違和感
私はその遺言書の写しを取り寄せた。文面は整っていたが、どこかで見たことがあるような文体だった。あえて言うなら、古びた官製文書のような硬さだ。
そして署名捺印の位置に奇妙なズレがあった。まるで誰かが手本を見て書いたような不自然さ。それは「手書き風フォント」で書かれた印象に近い。
にわかに偽造の可能性が頭をよぎる。だが確証がない。こうなると、いつものあの女の出番だ。
サトウさんの冷静な推理
「この印鑑、シャチハタじゃないですか」サトウさんは遺言書のコピーを一瞥し、そう呟いた。私は一瞬、自分の耳を疑った。
「そんなバカな……公正証書遺言にシャチハタなんて」私が反論すると、彼女は指先で印影の微妙なにじみと均一な圧力を示した。
「印鑑を拡大すれば一目瞭然です。均等すぎるんですよ」やれやれ、、、俺よりずっと探偵向きじゃないか。
旧住所から浮かぶ人物像
旧住所を調べると、「山口明男」という人物が過去にその家に住んでいた記録が出てきた。だがそれは20年以上前の話だった。
職業は不明、戸籍も転出済み。だが奇妙なことに、この人物の名義で近年開設された銀行口座があった。
しかもその口座には、相続財産と同じ金額が入金されていたのだ。これは偶然では済まされない。
遺言書か契約書か
「これ、契約書のフォーマット流用してません?」またもサトウさんが核心を突く。なるほど、だから署名欄が左詰めだったのか。
公証人の署名と印も、どこか既視感がある。私は思い出した。昔担当した遺産分割協議書で、似たような文面を見たことがある。
まさかと思い、書式を照合してみると、見事に一致した。つまりこの遺言書は、過去の書類を元にした偽造品だ。
見慣れた文体に隠された事実
あとはこの偽造を誰が行ったのか。依頼人の美月さんには身に覚えがないと言う。だが、登記申請を行ったのは司法書士ではなかった。
登記識別情報の通知先は、謎の私設私書箱。そして登記申請には、委任状が付いていた。差出人は……山口明男。
やはり、生きているのか? それとも……なりすましか。
近隣住民が語るもう一つの顔
私は古い記録を頼りに、近所の住民を訪ねた。老婦人が一人、顔をしかめながら「ああ、明男さんねぇ」と呟いた。
話を聞くと、明男はかつて弘と深い関係にあったという。「兄弟でも親戚でもないけど、妙に親しかった」と。
さらに聞き出すと、弘が何度か明男の名を借りて書類を作った過去もあったという。二人の関係は思った以上に深かったようだ。
二重生活の可能性
明男の名前が使われていたが、それは弘自身が便宜上使っていた“別名”のような存在だった。つまり、偽名登記のような形だ。
この構図は、かの『名探偵コナン』でたびたび使われる「偽装遺言」の手口に似ている。登記簿という“証拠”を信じるのが常だが、それを逆手に取った犯行。
この事件、まるで少年漫画のトリックじゃないか。俺たちは今、紙の上の迷宮を歩いている。
消えた相続人の行方
登記が完了した直後、明男名義での預金はすべて引き出されていた。防犯カメラに映った人物は、白髪交じりの男だった。
その顔は確かに山口弘その人。つまり、死んだはずの本人が、別名義で資産を隠したうえ、死を偽装していたことになる。
だがなぜそんな手の込んだことを。理由は、借金だった。彼は自分の死を装い、債権者から逃げていたのだ。
通帳に残された一文字
美月さんに返された通帳には、「謝」とだけ書かれた付箋が挟まっていた。父の筆跡だった。
逃げた理由は金だが、娘への後ろめたさは残っていたのだろう。すべての財産を娘に戻すよう、偽名で申請を行ったようだ。
まるでサザエさんの波平がひげを剃って別人になりすましたような話だが、現実のほうがもっと不可解だった。
サザエさん的な勘違いと真実
全貌を依頼人に話すと、彼女はぽかんとしていた。「つまり……父は死んでないんですか?」
「いや、一度死んだことにしたけど、実は……生きてたんだよ。波平さんもびっくりの偽装劇さ」
「やれやれ、、、」と呟いてから、俺はサトウさんを見ると、彼女は静かに頷いた。
やれやれ、、、からの巻き返し
嘘と偽装に満ちた相続劇の結末は、意外な形で平和に収まった。弘は名乗り出て、自首した。
美月さんは涙を流しながらも、父を受け入れた。金よりも、真実が欲しかったのだという。
「司法書士って、探偵みたいですね」と彼女が言ったとき、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
司法書士の最後の一手
登記簿の訂正申請をし、財産はすべて正式に美月さんへ移転した。弘の行方は、その後ニュースになるほどだった。
世間を騒がせた「生きていた相続人」の話題は、ネットを飛び交い、うちの事務所にもテレビ局から連絡が来た。
もちろん全部断った。俺は司法書士であって、芸能人じゃない。
登記簿の一行が導いた決定打
この事件の鍵は、たった一行の名義だった。人は紙の上でいくらでも嘘がつける。だが、その嘘には必ずほころびがある。
その小さな違和感に気づけるかどうかが、司法書士としての腕の見せ所なのだ。今回は、ギリギリ間に合った。
サトウさんの助けがなければ、きっと俺一人じゃ何もできなかっただろう。
事件が示す家族の絆
弘の行為は許されるものではない。だが、美月さんがそれを受け入れたことで、この家族はもう一度繋がった。
法はすべてを裁けない。だが、真実にたどり着く手段にはなれる。そのために俺たちはいる。
登記簿は、時に人の心を写す鏡にもなるのかもしれない。
紙の記録と心の記憶
登記簿は無機質な書類だが、そこに込められた過去や思いは、生きた記憶として残る。
それを読み解くのが俺の仕事だ。誰かの涙が、いつか笑顔に変わるように。
それが俺の、ささやかな使命だと思っている。
終わりなき日常へと戻る
事件が終わり、いつもの事務所に静けさが戻る。コーヒーはもう冷めていた。
「シンドウさん、次の相談、10時に来所です」とサトウさんが無表情で言った。
やれやれ、、、休む暇もないらしい。けれど、それが俺の生き方だ。
サトウさんの塩対応が沁みる午後
「次の案件も面倒そうですよ。遺産争いです」
「またか……」俺がうめくと、サトウさんが一言。「司法書士でしょ、当然です」
その言葉に、なぜか救われた気がした。今日もまた、一歩ずつ進もう。