言葉が詰まるようになった日々に思うこと

言葉が詰まるようになった日々に思うこと

言葉が出なくなる瞬間が増えた

最近、人と話していて「言葉が詰まる」ことがやけに増えたように感じる。以前はもっと自然に言いたいことが口から出ていたのに、今は一拍、いや二拍くらい置いてしまう。ふとした雑談でも「あれ、なんて言えばいいんだっけ」と迷ってしまうのだ。司法書士として日々さまざまな人と接する中で、言葉は大事な道具だ。でもその道具が、ある日突然、手から滑り落ちていくような感覚。おそらく仕事の疲れや、蓄積したストレスが原因なんだろう。それでも、詰まる自分を目の前にすると、どうにも情けなくなる。

会話中にふと止まる自分が気になる

相談を受ける立場である以上、はっきり、的確に話すことは責務だと自分に言い聞かせてきた。でも最近は、打ち合わせ中に自分の言葉が止まる場面がある。たとえば登記内容の説明をしている最中に、「ん?この言い回しで伝わるか?」と考えすぎて、止まってしまう。依頼者の目を見ながら、頭では言いたいことがぐるぐるしてるのに、口だけが動かない。昔なら「とりあえず話して、あとで補足すればいい」と割り切れた。でも今は、「ミスをしたら信頼を失うかも」と身構えてしまっている。

電話の受け答えで息が詰まることが増えた

事務所にかかってくる電話。昔はもっと軽やかに受け答えできていた気がする。今は、着信音が鳴った瞬間、軽くため息をつくことが増えた。たった一言の返事をするにも、頭の中で構成してしまう。「この説明、先に言っておいた方がいいか?」とか、「誤解されないように言い回しは…」と考えるうちに、ほんの少し間が空いてしまう。それが自分でもわかるから、余計に焦る。相手が気にしていなくても、自分の中では「また詰まった」とダメ出しが始まる。

雑談すらうまくできないときの焦り

登記の相談が終わって、少し雑談する時間がある。昔なら「最近どうですか?」とか「この辺の店、行きました?」なんて軽く言えた。でも今は、言葉が出ない。「これ言ってもウケないかも」とか、「なんか余計なこと言ったら失礼かも」と考えてしまって、黙ってしまう。相手が気まずそうに笑ったりすると、内心「まずい、気を遣わせた」と自己嫌悪が始まる。雑談って、もっと気楽なはずなのに、自分の中で重たくなってしまっている。

昔はもっとスムーズに話せていた気がする

正直、今よりも忙しかった時期だってあった。でもその頃はまだ言葉が出ていた。もしかすると、余計なことを考えずに済んでいたのかもしれない。今は「うまくやらなきゃ」「間違えたら終わりだ」という意識が強すぎるのだろうか。話すことが減ったわけじゃない。むしろ人と話す時間は増えているはずなのに、なぜか話しづらい。それが、年齢なのか、疲れなのか、自分でも正体がつかめない。

司法書士試験のころは喋る暇すらなかった

試験勉強のときなんて、誰かとしゃべる余裕すらなかった。参考書と六法だけを相手に、ひたすら黙っていた時期だ。なのに、あの頃の方が「伝える力」に自信があったように感じる。試験に受かったら、何でもできるような気がしていた。口下手でも、内容さえしっかりしていれば通じると本気で思ってた。でも、実際の現場では、言葉の「間」や「温度」が問われる。技術ではどうにもならない部分で、詰まることが増えている。

野球部時代のほうがよほど声を出していた

高校の野球部時代。声出しは日常だった。「声が出てないぞ!」って怒鳴られるのが常だったけど、それでも仲間内で自然に声をかけ合ってた。あの頃は言葉が先に出てた。内容なんて関係ない。ただ、気持ちを伝えるために声を出してた。今の自分は、声は出しても、心の中でいちいちフィルターをかけている。まるで、全部台本が必要みたいに。自由に言葉を投げ合えてたあの頃の自分が、ちょっとだけうらやましい。

詰まるのは言葉だけじゃない気がしてきた

言葉が詰まる、という表面的な問題の裏には、もっと深い「詰まり」があるんじゃないか。最近、そう思うことがある。自分の中で何かが澱のように溜まっていて、それが言葉の流れを邪魔している感覚だ。頭が整理できていないのか、心が疲れているのか、それとも単純にキャパオーバーなのか。いずれにせよ、話せない自分を責めるだけでは、何も変わらない。

仕事の量に心が追いついていない

一人事務所で、事務員も一人。やることは山ほどある。登記の準備、書類の確認、役所とのやり取り。ミスが許されない仕事ばかり。そんな日常を繰り返していると、だんだん心が置いてけぼりになる。話すときも、頭では「この件がまだ残ってる」とか「あの依頼者には折り返さないと」と別のことを考えてしまう。結果、今目の前にいる人への言葉が詰まる。マルチタスクに慣れすぎて、会話すら一つのタスクになっているのかもしれない。

事務員に頼めることにも限界がある

事務員さんはよくやってくれている。でも、任せられる範囲には限りがあるし、結局は自分の責任で判断しなければならないことが多い。だから、どこか常に緊張していて、リラックスして話すことができない。相手の言葉を受け止めながら、自分の言葉を紡ぐ余裕がどんどんなくなっている。会話が業務の延長になってしまうのは、本当は避けたいことなんだけど、現実にはそうもいかない。

先生と呼ばれても中身が空っぽに思える

「先生、これで大丈夫ですか?」と聞かれて、曖昧に頷いてしまうときがある。本当はしっかり答えたい。でも自信がない時もある。知識や経験はあっても、心が詰まっていると、はっきりとした言葉が出ない。そんな自分に「先生」と言われると、皮肉に聞こえることがある。肩書きと中身のギャップ。それが言葉をさらに詰まらせる。自分が空っぽな気がして、また黙ってしまう。

自分の中で処理できていない思いが溜まる

誰かに話す前に、自分の中で結論を出さなければならないという癖がある。でもそれは、時に足かせになる。話しながら整理することができればいいのに、それができない。思いが多すぎて、言葉が追いつかない。処理しきれていない情報が頭の中で渋滞しているような感覚。そんな時は、無理に話そうとせず、一度自分を俯瞰する時間が必要なんだろうと思う。

失敗が怖くて慎重になりすぎる悪循環

司法書士という仕事は、「正確さ」が命。でも、それに縛られすぎていると、言葉も慎重になりすぎてしまう。「間違えたらどうしよう」「言い方を間違えたらトラブルになるかも」と思えば思うほど、言葉が詰まる。悪循環だ。でも、失敗を恐れないというのは理想論でしかない。現実には、怖いものは怖い。だったらせめて、その「怖さ」と向き合う言葉を探していくしかないのかもしれない。

うまく話そうとするほど言葉が遠のく

完璧な説明、完璧な受け答え。それを目指せば目指すほど、言葉が出なくなる。それはまるで、バットを振る前にフォームを意識しすぎてスイングできなくなる野球少年のようだ。昔の自分なら、とにかく振っていた。今の自分は、構えすぎて空振りさえできない。もう少し、肩の力を抜いて話してもいいのかもしれない。

言葉に詰まる自分を少しだけ許してみる

言葉が詰まる自分を責めるのではなく、「そういう日もある」と受け入れることができたら、少しだけ気が楽になる。完璧じゃなくても、伝わるものがある。少なくとも、目の前の人と向き合おうとしていること自体が、大切なんじゃないかと思えるようになった。

黙ってる時間も意味があるのかもしれない

沈黙に耐えられないと感じる時期もあった。でも今は、沈黙も会話の一部だと思えるようになってきた。黙ることで、相手が話し出すこともあるし、自分の気持ちを整理できる時間にもなる。言葉が詰まることは、恥ずかしいことじゃない。ただ、少し立ち止まっているだけなのかもしれない。

相手の言葉に耳を傾ける時間だと思えばいい

自分が話すことばかりに意識を向けると、焦りが出る。でも、相手の言葉に集中すれば、自然と次に言うことが浮かんでくることもある。司法書士という仕事は、相手の立場に立つことが求められる。だからこそ、自分の言葉が出てこない時間は、相手を理解するチャンスでもある。そう思えると、少し救われる。

頑張っている人ほど詰まることもある

一生懸命やってるからこそ、うまく話せないこともある。真剣だからこそ、言葉に重みが出て、詰まってしまうのだと思う。だからこそ、詰まりながらも前に進もうとしている自分を、まずは認めてあげたい。他の誰かも、きっと同じように言葉に悩んでいる。そんな人に、「大丈夫、詰まってもいい」と伝えられたら、それで十分だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。