結婚より登記の方がよっぽど簡単だった

結婚より登記の方がよっぽど簡単だった

登記は思い通りに進むのに人生はそうはいかない

司法書士として働いていて何がありがたいって、登記はこっちが用意すべき書類を用意して、期日までに提出すれば基本的には進むということ。相手が不機嫌だからって申請が跳ね返されることはないし、気分で連絡を無視されることもない。淡々としているけど、その淡々さがどれだけありがたいか。婚活だと、こちらの努力が実るとは限らない。メッセージを送っても既読スルー。会話が弾んだと思ったら突然ブロック。登記のように「要件」と「効力」が明確であれば、恋愛も少しはやりやすかったのにと思う。

婚活アプリのメッセージより登記識別情報通知の方が温かい

一時期、婚活アプリを頑張っていた時期がある。真剣にプロフィールを作り、丁寧にメッセージを送って、相手の興味がありそうな話題を調べて。けれど、返事はほとんど来ない。逆に、法務局から届く登記識別情報通知。あれを手に取ると、ああ、きちんと自分の仕事が進んでるんだって安心できる。ペラペラの紙だけど、無言の信頼がそこにある気がする。どんなに寒い日でも、あの通知が届くとほんの少しだけ心が温まる。不動産登記に癒やされてる自分に気づいたときは、ちょっと情けなかったけど。

相手がいなくても登記は成立する優しさ

共同申請じゃなく単独申請の場合、相手がいなくても登記は進む。これって、実はすごくありがたいことなんじゃないかと思う。婚活って必ず相手がいて、その相手の気持ちが乗っていないと何も始まらない。会いたいと思っても、相手にその気がなければそれで終わり。でも登記なら、こちらの書類さえしっかりしていれば、淡々と処理されていく。優しさすら感じてしまう。独身で寂しい夜に、そんなことを考えて自分を励ましたりしている。

相手の気持ちを考えなくていい安心感

恋愛は、相手の気持ちを読み取る力が求められる。返事が遅いのは忙しいのか、興味がないのか、駆け引きなのか。そんなことを考えて疲れてしまう。でも登記には、そんな駆け引きはない。提出書類に不備がなければ受理される。補正が必要なら、明確に指摘がある。その「安心感」に、どれほど救われているか。人の気持ちは目に見えないけれど、登記の要件は条文に書いてある。迷わなくて済むって、実はすごく貴重なことなんだ。

独身司法書士の休日は静かすぎる

日曜日、街のカフェにはカップルや家族連れが溢れている。僕はといえば、家の掃除と溜まった書類の整理。誰かと過ごす予定もなく、電話が鳴ることもない。仕事が忙しい時は、休みが待ち遠しい。でも、いざ休みになると、誰とも話さない時間がぽっかりと空白のように広がる。テレビの音だけが部屋に響いていると、「この静けさが一番疲れるな」と感じることがある。登記完了のメール通知が唯一の”やり取り”になる日もある。

事務員さんに気を使って休むのも気疲れ

うちは小さな事務所で、事務員さんが一人。とても助かっている存在だけど、気を使う場面も多い。僕が休むと彼女に負担がかかるのが分かっているから、休むときもどこか後ろめたい。たまに体調を崩してしまうこともあるけれど、「この案件、あの人しかわからない」となれば、自宅からでも連絡対応をすることになる。だから、休日って言っても、完全なオフじゃない。そしてその日は当然、一緒に過ごす相手もいない。気疲れして終わる休日って、なんだか虚しい。

元野球部だけど今は誰ともチームを組んでいない

高校時代は野球部で、チームで声を掛け合って、一丸となって試合に臨んでいた。今でもあの雰囲気は忘れられない。でも今は一人。チームどころか、孤軍奮闘の日々。連携プレーなんてほとんどない。事務員さんとは最低限のやりとりで、案件は自分で抱え込みがち。チームワークよりも個人プレーが求められる。やればやるほど黙々として、誰かと喜びを分かち合う場面も少ない。甲子園を目指していたあの頃の熱量が、どこか懐かしい。

「結婚しないんですか」の問いが一番しんどい

親戚の集まりや、昔の同級生と会ったときに高確率で聞かれるのが「結婚しないの?」という質問。悪気がないのは分かってる。でも、それが一番答えづらい。頑張ってないわけじゃないし、仕事に没頭してると言えば聞こえはいい。でも、本音を言えば、もう疲れたし、どうしたらいいか分からない。「縁があれば」なんて言葉でごまかす自分が情けなく感じることもある。だから最近は、あまり人と会わなくなった。

登記の世界は裏切らないけど人間関係はそうもいかない

登記の世界では、信頼関係よりも書面と手続きが重視される。だからこそ、手続きはスムーズで裏切られない。けれど、人間関係は違う。信じた人に裏切られることもあれば、期待しても応えてもらえないこともある。人の気持ちは複雑で不安定。どれだけ自分が誠実にしても、それが伝わるとは限らない。登記のように、「これだけやったら確実に成立」という仕組みがあればいいのにと、何度思ったことか。

書類は嘘をつかないけれど言葉は不確か

登記申請書に書かれた情報は、基本的に事実を反映している。虚偽記載すれば当然責任が伴う。でも、日常の会話や婚活で交わされる言葉には、必ずしも裏付けはない。「また連絡しますね」という言葉の裏には何もなかったり、「いい人そうですね」に深い意味はなかったり。そういう経験が重なると、人の言葉に対して過敏になってしまう。書類の世界が恋しくなるのは、安心できる「正確さ」があるからだ。

不動産となら向き合えるのに人とはうまく向き合えない

登記の仕事をしていると、土地や建物の背景を知る機会が多い。所有者の歴史や利用目的、境界トラブルの経緯まで丁寧に読み取る。でも、そうやって物件には向き合えるのに、人間関係になるとからっきしダメだ。相手の感情の機微やタイミング、距離感の取り方が難しい。相続登記の依頼者には親身になれるのに、婚活の相手とは何を話せばいいか分からない。不器用さが際立って、自分でも嫌になる。

「たった一つのハンコ」で進む世界が心地いい

登記の世界では、印鑑一つで大きな流れが動く。売買でも相続でも、最後は「印」を押して完結する。その潔さが好きだ。婚活では、どんなに努力しても、相手の「心の印鑑」がもらえない限り進まない。しかも、その印は目に見えないし、いつ押してもらえるかも分からない。だからこそ、確実に「完了」できる登記が心地いい。終わったという実感があるだけで、日々の空しさが少しだけ癒される。

登記が好きなのか それとも逃げているだけなのか

たまに思う。この仕事が本当に好きなのか、それとも他に向き合えないから逃げ場として没頭しているだけなのか。婚活がうまくいかないからこそ、登記という自分のルールで動く世界に逃げ込んでいるのかもしれない。でも、そんな自分を責めるのはやめようと思う。誰だって、うまくいかないことの一つや二つある。せめて、誰かの登記が無事終わったときくらい、自分を少し誇ってもいいのかもしれない。

本当は誰かと一緒に仕事も暮らしも築きたかった

事務所を開いたとき、いつか誰かと一緒に仕事をして、暮らしも支え合えたらと思っていた。事務員さんではなく、人生のパートナーとして。だけど、その「いつか」は訪れなかった。気がつけば、申請書ばかりが増えて、誰かの手を握る機会は減っていった。それでも今日も案件はやってくる。ならばせめて、自分の書く登記が誰かの未来に繋がっていると信じていたい。

でも今日もまた完了通知書だけが届いた

ポストを開けると、そこにはまた法務局からの完了通知書が入っていた。きちんと業務をこなした証。誇らしい反面、どこか虚しさが残る。あの日、誰かと過ごす未来を描いていた自分が見たら、どう思うだろう。でもいい。今日も一つの登記が終わった。誰かの人生の節目を支えられたのなら、それはそれで、僕の仕事に意味があると信じたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。