休みの日の方が疲れる理由を言語化してみた

休みの日の方が疲れる理由を言語化してみた

休日なのに全然休めた気がしない

「せっかくの休みなのに、なぜか疲れが取れない」。そんなふうに感じたことはありませんか?僕はほぼ毎週そうです。平日は予定が詰まっていて大変なのに、休日になった途端、心も体も重くなる。妙な違和感とともに、一日が終わった後の虚無感。何もしてないのに疲れてる。いや、むしろ何もしなかったことへの罪悪感なのかもしれない。この現象をうまく言葉にできなかったんですが、最近になって少しずつ理由が見えてきました。

心と体のスイッチが逆に入ってしまう

仕事のある日は、ある意味ルーティンが決まっているから楽です。朝起きて、メールチェックして、事務所に行って、あとはもう流れ作業のように動ける。でも、休みの日はすべてが「自由」。この自由ってやつが曲者で、どう動いていいか分からなくなると、逆に心が疲れる。高校の野球部時代、オフの日は「自主トレしてこい」と言われたけど、何すりゃいいのか分からず、結局バット素振りして終わってたあの感じに似てます。

平日モードの残像が抜けない

休みに入っても、頭の中では「あの件どうなってるかな」「あのお客さんから連絡来てるかも」なんて考えてしまう。スマホを手に取ってメールを確認するクセが抜けない。ついでについついLINEまで開いて既読スルーしてしまった依頼者の名前を見て憂鬱になる。完全にオフにするって、言葉で言うほど簡単じゃないんです。結局、体は休んでても心は仕事モードに片足突っ込んでる状態がずっと続く。

結局、机に向かってしまう悪いクセ

午前中、ぼーっとコーヒー飲んでたはずが、気づいたら事務所の机に向かって書類を整理していた。なんなら補正通知を出す手順をシミュレーションしてた。休みの日に仕事のことを考えるのは、もう癖というか呪いに近い気がします。たまに「事務員さん休みだから集中できる」とか思っちゃう自分が情けない。結局、自分が自分を追い込んでる。そんな日曜の午後、あっという間に日は暮れていきます。

「ちゃんと休む」って意外と難しい

意識的に「今日は休もう」と決めても、何をすれば「休んだこと」になるのか分からない。スーパーに行って買い物して、洗濯して掃除して…結局、家事に追われてるだけ。人と会っても、笑顔作って気を使って帰宅後ぐったり。「休み」という言葉がもはやプレッシャーになっている気がしてきます。

予定がないことに罪悪感を感じる体質

学生時代から「何かしてなきゃいけない」と思う癖があるせいか、休みに何も予定がないと落ち着かない。「このままじゃ人生に置いてかれる」とか、妙に焦ってしまう。だからついネットでセミナー探したり、Amazonで無駄に書籍をポチったりして、結局一日潰れてる。休みの使い方が下手すぎる自分に、また落ち込む。

人と会えば会ったで気疲れする

「休みだから人と会おう」と思っても、それはそれで気疲れします。友達と飲みに行っても、仕事の愚痴か昔話ばかり。会話の中で「最近どう?」と聞かれて、うまく返せない自分にモヤモヤする。相手に気を遣いながら、楽しいふりしてる自分に気づくと、さらに疲れが増していきます。

自営業の「自由」は「孤独」と紙一重

自分の裁量で動けることは確かにありがたい。でも裏を返せば、すべての判断と責任を自分で抱えることになる。誰かが「休め」と言ってくれるわけでもないし、サボっても誰にも怒られない。だからこそ、どこかで「怠けてる自分」に自己嫌悪する。自由って、案外苦しいものです。

飲みの誘いに乗っても虚しさが残る

先日、久しぶりに元野球部の仲間と集まったんですが、みんな結婚してて子どももいて、話題が全然合わない。俺はというと、独身で事務所と家の往復生活。笑ってるフリしながら、心の中ではずっと置いてけぼりでした。帰り道の静かな電車の中、やけに疲れがどっと押し寄せてきた。

本音を言える相手がいない問題

休みの日に誰かと話せたらいいなと思うことはある。でも、気軽に電話できる相手がいない。弱音を吐くと「忙しくてすごいね」とか返されると、余計にしんどい。共感じゃなくて称賛で返されると、分かってもらえなかった気がして距離ができる。それが続くと、ますます一人でいる時間が増えていく。

休みに家にいると余計なことを考えてしまう

体を休めるつもりで家にこもってると、どんどん考え事が増えてくる。「このままでいいのか」「将来どうなるのか」など、普段考えないようにしていることが、無防備な心に侵入してくる。休むはずが、逆にメンタルを削られている現実に気づく。

未来への不安がじわじわ浮かんでくる

たとえば老後のこと。年金、健康、孤独…。40代半ばになると、リアルに不安が襲ってくる。でも考えたところで今すぐどうなるわけでもない。でも考えずにはいられない。あの時間が本当にしんどい。テレビを流してても、誰かの幸せそうな姿を見て、自分とのギャップに打ちのめされる。

このまま歳を取ってどうなるんだろう問題

仕事は好きだけど、ふと「このままひとりで死ぬのかな」と思うことがある。家族もいない。信頼している事務員さんもいつか辞めるかもしれない。そうなると自分一人ではもう回らない。そう考えると、未来への想像がどんどん暗くなる。そしてそのまま、夕飯作る気も失せてコンビニ飯になる。

元野球部の仲間との落差に凹む瞬間

SNSを開けば、元チームメイトの家族旅行の写真や、子どもの野球大会の話ばかり。いいなと思いつつ、「自分は何してるんだろう」と比較してしまう。昔は同じように汗を流していたのに、今は人生の進み具合が全然違う。置いていかれてる感覚が、じわじわと心をむしばんでくる。

そもそも仕事以外に楽しみがない

これが根本的な問題かもしれない。趣味がない。というか、楽しめる余裕がない。昔は映画も好きだったけど、最近は観ても頭に入ってこない。休みの日があっても、「じゃあ何するの?」が浮かばない。だから結局、また仕事に戻ってしまう。悪循環です。

本当は休みより仕事してる方がラクかもしれない

皮肉な話だけど、仕事がある日のほうが気が楽なこともある。やることが明確で、時間の流れが早く感じる。感謝されたり、報酬が発生したり、成果が目に見えるから達成感もある。逆に、休みの日は成果が見えない分、ただの「空白」にしか感じられないのです。

仕事があれば“やること”が決まっている安心感

今日は誰に連絡するか、何の書類を作るか、決まっていればそこに集中すればいい。でも「何をしてもいい日」は、自由の裏に不安がついてくる。「この時間をムダにしてないか?」と常に自問してしまう。仕事が忙しい日は、そういう迷いが入る隙がないだけマシなのかもしれません。

「必要とされてる感」に支えられている日々

依頼者がいて、登記があって、書類を通して誰かの役に立っている実感。これがないと、ただの存在になってしまう気がする。自分の存在価値を確認する手段として、仕事がある。これは危ういバランスかもしれないけど、今の自分にとっては大事な支えです。

でも、それが崩れたときの怖さもある

もし仕事がなくなったらどうなるんだろう。誰からも頼られなくなったら、自分は何を支えにして生きていけるのか。その不安があるからこそ、休むことにすら罪悪感がついてくる。いつも何かに追われていないと、自分が壊れそうな気がして、結局休むことを放棄してしまう。

休むって何だっけと本気で考えた休日の夕方

日が暮れたリビングで一人、冷えたコーヒーを見つめながら思った。「俺、休んだんだっけ?」と。気持ちは重く、体はだるく、何も得られていない感じ。だけど、もしかすると、こうやって立ち止まって考える時間そのものが、今の自分にとっては必要な「休み」なのかもしれない。すぐには答えは出ない。でも、自分なりの休み方を模索していこうと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。