消えた代表印の行方

消えた代表印の行方

消えた代表印の行方

朝から雨がしとしと降っていた。こういう日に限って、ややこしい電話が鳴るのだ。事務所の古びた電話機が震え、俺は溜め息混じりに受話器を取った。声の主は、近所の中小企業「松澤建設」の役員だった。

「代表印がなくなったんです。おそらく盗まれた可能性が……」

盗まれた?印鑑が?サザエさんのカツオが漫画を隠すようなレベルじゃない。こっちは登記に直結する“会社の顔”だ。俺は背中に冷たいものを感じながら、サトウさんに視線を送った。

曇り空と一本の電話

「また事件ですか」とサトウさんが面倒くさそうに呟いた。俺は気の利いた返しもできず、ただうなずくだけだった。曇天の空が、ますますどんよりと重くのしかかる。

代表印の紛失は登記や契約の信頼性に直結する。相手がどれだけ「内輪の話」とごまかしても、外から見れば企業の根幹を揺るがす問題だ。やれやれ、、、また厄介ごとだ。

とはいえ、こういうときに動けるのが司法書士の役目でもある。俺たちは松澤建設へと車を走らせた。

サトウさんの不機嫌な朝

助手席でサトウさんがぼそりと「この雨、髪まとまらないんで」と呟いた。俺は気の利いた慰めが言えず、「そっか……」とだけ返した。たぶん、黙ってるのが正解だった。

事務所に到着すると、受付で待っていたのは元社長の妻、松澤玲子。目元にやや疲れの色が浮かび、黒のスーツがどこか喪の気配を残していた。

玲子は静かに「本当に印鑑がないんです。誰かが、夫の死後に持ち出したとしか思えません」と話し始めた。

訪問者は元社長の妻

玲子の話によれば、代表印は社長のデスクの鍵付き引き出しに保管されていた。だが社長が急死し、葬儀が終わってから数日後には既に印鑑がなかったという。

会社は息子が継ぐ予定だったが、まだ登記は変更されていない。つまり現状、社長が不在のまま会社が宙ぶらりん状態になっていたのだ。

代表印があれば、誰かが“社長のふり”をして動けてしまう。これはもはや内輪の話では済まされない。

消えた書類と空の金庫

社内の経理室にも異変があった。旧社長時代の契約書の一部が、いつの間にかなくなっていたという。保管庫は鍵が壊されており、金庫も開けられていた。

警察に届けたのかと尋ねると、「大事にはしたくない」と玲子は言った。会社の評判が下がるのを恐れての判断だろうが、それが後で命取りになることもある。

「これ、まるで怪盗キッドの仕業みたいですね」と俺がつぶやくと、サトウさんは無言で書類をひったくって読み始めた。

代表印が最後に使われた日

俺たちは登記簿の履歴や契約書の印影を精査した。すると社長の死後、明らかに代表印が使われた書類がいくつか見つかった。

しかもそれは、社用車の名義変更や倉庫売却といった、資産に関わる内容ばかりだった。これは誰かが“意図的に”動いている証拠だった。

「印影、微妙にずれてますね」とサトウさんが指摘したとき、俺は彼女の眼力に感心した。

法務局の記録を洗い出す

法務局で履歴をたどると、倉庫売却の登記はたしかに受理されていた。ただし、提出された委任状にはサインがなく、朱肉もかすれていた。

担当者は「ちょっと怪しいとは思いましたが、印鑑証明がついてましたから」と申し訳なさそうに言った。そう、偽物の印鑑証明が使われた可能性がある。

俺は、印鑑証明のコピーを見つめながら、この事件の核が見えてきたような気がした。

社内メールに残された矛盾

次に社内メールのやり取りを洗っていたサトウさんが、ある添付ファイルに注目した。そこには、社長が死んだ後の日時で、なぜか社長からの指示メールが残っていた。

「死人がメール送りますかね」とサトウさん。冷静すぎるツッコミに苦笑しながら、俺は思い当たる人物を口にした。

「元経理部長、だな」あの男だけが社長のメールアカウントを触れる立場にあった。

元経理部長の証言

彼は既に会社を退職していたが、倉庫売却の登記の直後に辞表を出していた。俺たちは喫茶店で待ち合わせ、話を聞いた。

「別に、会社のためにやったことですよ。止まってた資産を動かしただけです」彼は平然と語った。だが、印鑑を勝手に使った時点で、完全にアウトだ。

「代表印があれば、何でもできると思ってるでしょ」とサトウさんが冷たく言い放つと、彼は黙り込んだ。

代表権をめぐる遺恨

その背後には、玲子と息子の確執があった。玲子は社長の遺言を受け、財産の一部を別法人に譲渡しようとしていた。息子はそれに猛反発し、遺産分割協議が泥沼化していたのだ。

経理部長が手を貸したのは、その板挟みにされた玲子の意向だったのかもしれない。だがやり方が強引すぎた。

印鑑の力は恐ろしい。形式だけで全てが動いてしまう。正しさとは何か、俺も一瞬考えてしまった。

遺産分割協議書の闇

玲子が提出しようとしていた遺産分割協議書は、息子の署名が入っていない状態だった。それでも印鑑を押せば、登記はできてしまう。

「書面で済む話じゃないんです」とサトウさんは言った。彼女は書類の中にある“人間の思惑”を見抜いていた。

やれやれ、、、俺たちはいつも、紙と朱肉の間で、人間の欲と戦っている気がする。

亡き社長のもう一つの顔

最終的に、玲子の隠していた法人がペーパーカンパニーであることが判明した。そこに資産を移し、個人的に利用するつもりだったのだ。

「それも、夫が望んだことなの」と彼女は涙ぐんだが、それが真実かどうかは今となっては分からない。

ただ一つ、はっきりしたのは——代表印の行方と共に、信頼もまた失われていたことだった。

深夜の事務所と一枚のコピー

事件の鍵となった印鑑証明は、なんと当事務所のコピー機で印刷されたものだった。夜間に入り込んだ形跡が残っていた。

「鍵、ちゃんと管理してくださいね」とサトウさん。耳が痛い。

やれやれ、、、どうして俺の事務所ばかりが“事件の現場”になるのだろう。

サトウさんの一撃推理

「この押印、朱肉じゃなくスタンプ台ですよ」サトウさんの観察眼が事件の決定打となった。スタンプ台では朱肉と印影の質感が違う。

つまり、代表印は“複製”だったのだ。犯人は本物を紛失させ、偽物で手続きを進めた。事実上の“影武者印鑑”。

登記官にその証拠を提示し、偽装は無効になった。印鑑一つで会社の命運が左右される。それが現実だ。

印影が語る真実

結局、代表印は玲子がタンスに隠していた。自分を守るため、誰にも見せず保管していたという。だがそれが余計に不信を生んでしまった。

全てが元通りには戻らない。けれど、これで会社は一度、仕切り直せるはずだ。

事務所に戻った俺は、また机にうつ伏せになった。「次はどんな依頼が来るのやら……」薄目を開けると、サトウさんが無言でコーヒーを置いていった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓