信じてくれるクライアントより信じられない自分がいる

信じてくれるクライアントより信じられない自分がいる

クライアントからの信頼が重荷になるとき

「先生にお願いしたら安心です」「信頼しています」。そう言われるたび、ありがたいと思う反面、なぜか胸の奥がチクリと痛む。自分なんかで大丈夫なんだろうか?と不安になる。手を抜いたことなんてない。でも、思いがけないミスや、見落としをしてしまったことは、過去に一度や二度ではない。相手がこちらを信用してくれているのに、肝心の自分が自分を信用しきれていない。そんな矛盾を抱えたまま、今日も依頼を受けている。

「先生にお願いしてよかった」その言葉が苦しい

先日、遺言書の作成をお手伝いした年配のご夫婦に、「あなたに頼んで本当によかった」と言われた。もちろん嬉しい。けれど、その言葉が終わる前から、心のなかで「本当にそうだろうか」と問いかけていた。少し前に、登記の申請で郵便局に書類を取りに行くのが遅れ、予定がズレ込んだことがあった。それがずっと心に引っかかっていて、「完璧ではなかったのに」という後ろめたさが拭えない。クライアントの信頼に自分の心が追いつかない。そんなズレに疲れてしまう日がある。

なぜか湧いてくる「自分で大丈夫か」という声

誰かに頼られるのは、ありがたいことのはずだ。けれど、信頼の言葉を受け取ったときに感じるのは「嬉しさ」よりも「怖さ」だ。私は45歳、司法書士として20年近く働いてきたが、それでも「これで正解だったのか?」と自分に疑問を持つことがある。周囲から見れば、それなりのキャリアに映るのかもしれない。でも、過去の小さなミスが、何度も頭をよぎる。まるで、失敗を繰り返し再生する脳内のビデオテープのように。

経験を積んでも消えない自己不信との戦い

自己不信は新人の頃だけの話ではない。むしろ、年数を重ねるほど「過去の自分」が増えていくぶん、自分に対する評価が厳しくなっている気がする。若い頃の勢いだけで突っ走っていた時期を過ぎると、「本当にこの対応でよかったのか」「もっと良い道があったのでは」と、自分を客観的に見てしまう。そういう意味では、キャリアが武器になる一方で、足かせにもなるのかもしれない。

不信感の正体は失敗への恐れかプライドか

自分への不信感。その正体はなんなのかと考えてみると、単なる「臆病」では片付けられない気がする。失敗をしたくない気持ちと、期待を裏切りたくない気持ち。そこに、自分の中にあるプライドのようなものが絡んでくると、ややこしくなる。「俺はこんなもんじゃない」と思っている自分と、「俺はこんなもんだ」と思っている自分がケンカしているような、そんな感覚だ。

うまくいったはずなのに喜べない理由

あるとき、完璧に近い仕事ができたと感じた案件があった。提出期限も守り、ミスもなかった。でも、不思議なことに喜びより先に「もっとできたんじゃないか?」という思いが出てくる。100点の出来でも、自分で自分に減点してしまう。これは完全に職業病かもしれない。いや、性格なのかもしれない。元野球部のせいだろうか、「あのときもう一歩踏み込めば」という反省癖が抜けない。

ちょっとした見落としで崩れる自信

登記の添付書類のコピーをとり忘れた。たったそれだけのことで、自信がごっそり削れた日がある。事務員から「先生、大丈夫ですか?」と声をかけられた時、思わず「やめたい」とこぼしそうになった。ミスは誰にでもある。わかっている。でも、自分には許されない気がしてしまう。これは自分自身に課した過剰なプレッシャーだ。

「完璧じゃないとダメ」と思い込んでいた

どうやら私は、「完璧じゃない自分」を強く否定しているらしい。だからちょっとの失敗や不備で、「もう全部ダメだ」と感じてしまう。根っこには、「ちゃんとしなきゃ」という真面目すぎる性格がある。親にも教師にもそう育てられてきた。でも、それって息苦しい。そんなにカチコチに固まっていたら、いつかポキっと折れてしまう気がしてならない。

事務所経営者としての責任と孤独

誰にも相談できない悩みは、日を追うごとに蓄積する。事務所を経営している以上、弱音を吐ける相手が限られる。事務員には心配をかけたくないし、同業者にも変なふうに思われたくない。結果として、「大丈夫なふり」が板につきすぎて、もはや素の自分がどこにいるかわからないことがある。孤独は、誰かに拒まれることで訪れるのではなく、自分から吐き出せないことで深まっていく。

誰にも言えない「本当は逃げたい」気持ち

ふと、「もう全部やめたい」と思うことがある。山積みの書類、期限の迫る案件、何よりも「ちゃんとしなきゃ」と肩に乗ってくる見えない重圧。逃げたい。でも逃げたところでどこに行く?司法書士として生きてきた人生の延長に、逃げ道なんてない。だからこそ、自分をごまかしながら前に進む。そんな日々を、誰にも知られずに繰り返している。

事務員の前では弱音を見せられない現実

事務員は20代後半の女性だ。明るくて、よく動いてくれる。ありがたい存在だ。でも、彼女の前で「今日はもう無理です」とは言えない。言った瞬間、何かが崩れてしまいそうだからだ。だから冗談まじりで「もう帰りたいっすね〜」なんて言いながら、実際には夕方からが本番。そんな日々を送っている。「先生も人間なんですね」と言われたら、逆に泣きそうになる。

それでも踏みとどまれる理由を探して

こんなふうに不安や自己不信を抱えていても、なぜか仕事を続けている。その理由は自分でも明確には言い表せないけれど、「逃げない」ことが自分に課した最低限のルールだからかもしれない。やめたいと言いつつ、やめられない。どこかに「まだやれる」という思いが残っているからかもしれない。

過去の自分に救われたこともあった

昔、あるクライアントに「先生の対応で家族が救われました」と言われたことがある。当時はその言葉を軽く受け取っていたけど、今になってその一言に支えられている。仕事の価値って、すぐには見えない。でも、何年かたってから効いてくる薬のように、自分の背中を押してくれることがある。それを信じて、なんとか一歩を踏み出している。

元野球部の性分が地味に効いてくる

中学高校と野球部だった。厳しい練習も、泥だらけのユニフォームも、今思えば精神力の土台を作ってくれた気がする。あの頃、「やめたい」と何度も思った。でも最後までやりきったことが、今の自分の背骨になっている。逃げない、踏ん張る、それしか能がないかもしれないけど、今の自分にはそれが大事な武器なのかもしれない。

「やめたくない」の裏側にある覚悟

結局、「やめたい」と思っても、「やめたくない」という気持ちが勝ってしまう。自分がこの仕事に何を求めているのか、まだよくわからない。でも、信じてくれるクライアントのために、自分をもう少し信じてみようかと思う日もある。不信感と向き合いながら、それでも前に進む。それが今の、等身大の自分だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。