連休の予定が洗濯掃除沈黙だった話

連休の予定が洗濯掃除沈黙だった話

連休が嬉しくない年齢になっていた

昔はあんなに楽しみにしていた連休が、今では少し億劫なものになってしまった。予定を立てることすら面倒で、誰かを誘うエネルギーもない。家族がいれば違うのかもしれないが、独身の司法書士にとって、連休はむしろ“孤独が濃くなる期間”でもある。普段は仕事に追われて気づかない感情が、ぽっかり空いた時間に顔を出してくる。そんな自分に気づくたび、どこか自嘲気味にため息が出る。

予定を聞かれるときのあの間

「連休、どこか行かれるんですか?」とクライアントや知人に聞かれたとき、毎度返答に困る。旅行に行くほどの余裕もないし、実家に帰る理由もない。かといって「特に何も」と言えば、相手の「えっ…」という微妙な反応が返ってくる。そうなると、「まあ、掃除とか洗濯とかですかね〜」と苦笑いしながら答えるのが定番になった。あの気まずい間。あれが、連休前に一番しんどい瞬間かもしれない。

誰にも会わない静かな部屋

事務所に行かない日は、アパートの一室でひたすら静けさと過ごす。テレビをつければいいのに、それすら煩わしくて、ただただ無音の時間が流れる。若い頃ならゲームでもしていたかもしれない。でも今はその集中力すらない。誰かと喋ることもないし、電話も鳴らない。そういう時間を“贅沢”と言う人もいるけれど、正直、あまりに静かだと、心がざわざわしてくる。

音がしないと心の声が大きくなる

冷蔵庫のブーンという音と、自分の呼吸音。それだけが部屋に満ちている。そんな中、ふと考えてしまう。「このまま何も変わらない人生でいいのか?」と。普段は仕事に逃げて誤魔化していたことが、こういう時間になるとじわじわ押し寄せてくる。音がない分、自分の内面の声が大きくなって、聞こえてほしくないことまで耳に入ってくるような感覚だ。

沈黙が心をざわつかせる瞬間

沈黙は時に優しいが、時に残酷だ。寂しさに慣れていると思っていたけれど、いざ静けさの中にいると、不意に心がざわつくことがある。まるで、昔の自分が「こんなはずじゃなかった」と声を上げているような気さえする。逃げる場所がないというのは、思った以上にこたえる。

洗濯物だけが積もっていく

連休だからといって、特別なことは何もしない。ただ、溜まった洗濯物を片付ける。干して、畳んで、しまう。何の変哲もないルーチンだけれど、洗濯物だけは確実に自分に向き合ってくれる。干しているとき、ふと「誰のためにこれをやってるんだろう」と我に返る。答えは自分。でも、その自分すら、どこか他人のように感じてしまうのだ。

汚れを落としても気分は晴れない

シャツの襟元についた汗ジミを漂白剤で落としても、心の重さは落ちない。物理的な汚れと精神的なモヤモヤは別物だと、こういう時に痛感する。洗濯機の中でぐるぐると回る衣類を眺めながら、自分の心もああやって洗えたら楽なのに、と思ってしまう。だけど現実は、いつも脱水モードにすら入れていない。

柔軟剤の香りに慰められる休日

それでも、洗い上がったタオルからふわりと香る柔軟剤には、ほんの少しだけ救われる。誰かに褒められるわけでも、感謝されるわけでもないけれど、ちゃんとやった自分を認めてあげたくなる瞬間だ。香りだけが「お疲れさま」と言ってくれているようで、無性に嬉しくなるのだから不思議だ。

掃除という作業で心を保つ

連休中、やたらと掃除がしたくなるのは、空いた心を埋めようとしているのかもしれない。雑巾で床を拭き、窓を磨き、棚のホコリを取る。無心でやっているうちに、気づけば2時間経っている。誰にも頼まれていない。でも、「片付いた」という結果が、ほんのわずかな満足感をくれる。

机のほこりと一緒に思考も払う

机の上の細かいホコリを見つけて、綿棒で丁寧に取っているとき、不思議といろんな雑念も一緒に消えていく気がする。「これ、やって何になるんだ」と思う気持ちと、「今だけはこれが一番大事」と思える気持ちが、入り混じっている。人から見れば無駄な作業でも、自分にとっては意味のある時間になっている。

達成感より空しさが勝つとき

部屋が綺麗になったあと、ふと我に返る。「誰か来るわけでもないのに」と思ってしまうことがある。達成感のはずが、空しさの方が強い。こんなに頑張って整えても、見てくれる人はいない。その現実にまた、ちょっとだけ凹む。自分のためだとわかっていても、やっぱり誰かの存在を求めているのだ。

綺麗になっても誰も気づかない

掃除が終わった部屋にぽつんと一人。綺麗な空間なのに、どこか寒々しく感じるのはなぜだろう。きっと「整えた」という行為が報われないと、空間も心も、輝かないのだ。誰かが「綺麗にしてるんだね」と一言くれたら、それだけで報われる気がする。けれど、現実はその一言すらない。

ふとよぎる過去の連休の記憶

学生時代、連休といえば野球漬けだった。グラウンドに出て、泥だらけになって、仲間と大声で笑っていた。疲れ果てて家に帰り、風呂に入って爆睡する、それが最高の連休だった。今思えば、あの頃は“誰かと時間を共有する喜び”があった。大人になった今、それが一番の贅沢だったのかもしれない。

野球部だった頃は誰かがいた

朝から声を出して、日が暮れるまでボールを追いかけた。連休でも練習だったけど、全然嫌じゃなかった。むしろ、予定が埋まっていることが嬉しかった。練習後にコンビニに寄って、買ったアイスをみんなで分け合ったあの時間。何も特別なことじゃないのに、今思い出すとやたらと眩しい。

賑やかさの中にいた自分を思い出す

今の静かな日々と違って、あの頃の自分は常に誰かと一緒にいた。賑やかで、くだらない会話で笑って、意味もなく外に出かけていた。別にモテていたわけじゃないけど、人に囲まれていた安心感があった。今の自分には、それが足りていないのかもしれない。

孤独は贅沢か不幸か

ひとりの時間を大切にできることは、大人の証だと誰かが言っていた。でも、ひとりでいることと、ひとりしかいないことは、全く別物だ。選んだつもりの孤独が、いつの間にか“取り残されただけ”になっている気がして、ゾッとする。自由と孤独は紙一重。司法書士としての生活の裏に、そんな感情がひっそりとある。

自分で選んだはずなのに

一人の方が気楽。そう思ってきたはずだった。だけど、ふとした瞬間に「誰かいてくれたら」と思う。掃除中の独り言が虚しくなることもあるし、コンビニで二人分のお弁当を手に取って「いや、一つでいいか」と戻す瞬間の寂しさもある。自分で選んだはずなのに、思っていたのと違う。そんな思いが胸をよぎる。

人恋しいと思った瞬間の敗北感

「人恋しい」と思ってしまったとき、どこかで自分に負けたような気がする。もっと強くなれよ、と言い聞かせても、感情は言うことを聞かない。誰かとただ、ご飯を食べるだけでもいい。その時間が欲しいだけなのに、それすら叶わない現実に、またひとつ年を取った気がする。

連休明けが待ち遠しくなる不思議

結局、仕事が始まることにホッとしている自分がいる。忙しさに紛れている方が、よほど楽だ。連休が終わる頃には、「また休みたい」と思うくせに、実際の休みはあまりに空虚だった。司法書士という仕事が自分を支えてくれている。それは確かだ。でも、できれば次の連休には、もう少しあたたかい何かを感じたいと、心のどこかで願っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。