朝の静寂に鳴る一本の電話
午前8時45分、まだコーヒーすら口にしていない時間に事務所の電話が鳴った。受話器を取ると、静かな男の声が「相続登記について相談したい」と言う。どこか言葉に迷いのある、裏腹な響きだった。
サトウさんがカップを片手に、無言でこちらを見る。たしかに、こんな朝の電話にロクな依頼はない。やれやれ、、、と心の中でつぶやいた。
相続登記の相談という名目
相談内容は「亡くなった父の土地を自分名義にしたい」という、ごくありふれた話だった。しかし住所を聞いたとたん、胸の奥がざわついた。旧村の奥、山裾にある築70年の一軒家。昔、共有トラブルで揉めた土地の一つだった。
記憶の中で、古びた赤茶けた瓦と木造のひさしが脳裏に浮かんだ。何かが引っかかっていた。
旧家の登記簿に刻まれた名前
登記情報提供サービスで調べると、権利関係が妙に複雑だった。過去十年で名義が二度変わっているのに、相続登記ではなく贈与扱いになっている。しかも相手方はすべて「親族内」とだけ記録されていた。
これでは関係性が不透明すぎる。しかも、贈与なのに登録免許税がきっちり納められていた。細工されている可能性もある。
妙に多い所有者変更の履歴
どう考えても、こんな山奥の土地にそれほどの需要があるとは思えない。固定資産税だってバカにならないだろう。にもかかわらず頻繁に名義が変わるというのは、何かを隠しているのだ。
サトウさんは何も言わず、モニターを見つめながらメモをとっていた。
現地調査に見えた違和感
午後から現地を訪ねてみると、「空き家」のはずの家に、洗濯物が干されていた。庭先には三輪車とボロボロのスニーカー。どう見ても人が住んでいる。
ピンポンを押すと、しばらくして中年女性が応対した。「ああ、兄が司法書士さんを呼ぶって言ってました」と言う。
空き家のはずが暮らしの匂い
玄関の隅には、最近買ったばかりの家電の段ボールが重ねてある。廃墟ではない。それどころか、ちゃんと生活の営みがあるのだ。
依頼人が「相続したい」と言っていたが、それならここに住む人たちは誰なのだ?
依頼人の供述と食い違う現実
その晩、事務所に戻って再度打ち合わせの電話を入れた。「お父様はいつ亡くなられたのですか?」と尋ねると、微妙な沈黙が走った。
「ええと、たしか、、、五年前です」——。だが、戸籍には最近の死亡届が記載されていた。亡くなったのは三ヶ月前だった。
故人の死亡時期に潜む謎
もし五年前に亡くなっていたとしたら、相続登記がそれ以前にされているのは矛盾しない。しかし、三ヶ月前ならば、過去の名義変更は何だったのか。
生きている人間の名義を無断で動かすには、本人の同意か、偽造が必要になる。
サトウさんの冷静なひと言
「登記識別情報通知が提出されてませんよね」
サトウさんの言葉にハッとした。依頼人は最初の面談時、「全部任せますから」と、必要書類も出さなかった。それはつまり、本人の意思で動かせないということだ。
戸籍に現れない家族構成
さらに戸籍を丹念に追っていくと、ある事実が判明した。依頼人は三兄弟の末っ子であり、長男は戸籍から“抜けて”いた。失踪扱いにされていたのだ。
しかし、さっき会った中年女性は「兄」と言っていた。失踪していないのなら、相続権は依頼人だけのものではない。
登記簿に記された偽装の痕跡
過去の贈与登記の際に使われた印鑑証明と実印が、別人のものだった可能性が出てきた。筆跡鑑定を依頼すれば、おそらく偽造が証明される。
それに、登記簿上の住所と現住所が異なることも不自然だった。
実印と印鑑証明の不一致
印影は完璧だったが、使用された印鑑証明書の日付が実際の登記申請日と微妙にズレている。これは過去に他人の証明書を流用した可能性がある。
もしくは、役所で誰かが裏で動いていたのかもしれない。
近隣住民が語ったもう一人の相続人
翌日、近隣住民に話を聞いてみると、「ああ、長男さんなら戻ってきてるよ」とあっさり言われた。ここに住んでいたのは、その長男一家だったのだ。
すでに本人が戻ってきているのに、なぜ失踪扱いのままなのか。
過去に家を出た長男の存在
事情を聞くと、長男は父親との折り合いが悪く、勘当されていたらしい。その後、戸籍から除かれたまま役所に届け出もせず、身を隠していたという。
だが、父が亡くなった今、正当な相続人としての権利は残っている。
謄本の裏に潜む心理戦
遺言書が発見された。だがその文面には、長男の名前が一切出てこない。しかも、筆跡が死亡時点よりも明らかに後のもので、加えて内容も不自然に整いすぎていた。
明らかに“誰かが”用意した後出しの文書だった。
遺言書の矛盾と筆跡の違い
筆跡鑑定に出した結果、やはり偽造と判定された。依頼人がこれを用意したとすれば、完全に犯罪行為である。相続をめぐる醜い争いが、再び表面化してしまった。
家族って何なんだろうな、とつい口をついて出た。
シンドウの直感と野球部の勘
グラブの革紐が切れる寸前のような、微妙な引っかかり——それがすべてをつないだ。野球部時代、こういう直感で打球を追いかけたことを思い出す。
「やれやれ、、、まさか司法書士になってもこんな勝負をする羽目になるとはな」
「やれやれ、、、やっぱりか」
遺言も偽造、登記も偽装、相続権も隠蔽。すべては弟の仕組んだ偽装相続だった。証拠を整えて提出すると、役所は重い腰を上げた。
遺産分割調停が正式に申し立てられることになった。
明らかになる偽装相続の全貌
全てが明らかになった時、依頼人は黙り込んでいた。彼なりに家庭の事情や、経済的な苦境もあったのだろう。それでも、正義は通さなければならない。
登記簿は、真実を黙って受け止める証人だ。だが、嘘の上に真実は積み重ねられない。
金のための兄弟間の裏切り
最後は、家族の問題へと発展した。司法書士にできるのは、記録を整えることまで。それ以上は法律と、当事者たちの心の問題だった。
その境界線を、私はいつも行き来している気がする。
司法書士としての最後の仕事
申請書を出し終えた帰り道、ふと空を見上げる。夏の夕暮れが、事務所の窓を赤く染めていた。
次の事件が、またすぐにやってくる気がしてならなかった。
被害を止めた登記の一手
登記情報が更新されるその一瞬まで、気は抜けない。だが今回は、間違いなく一歩早く手を打てた。司法書士としての誇りを、少しだけ取り戻せた気がする。
たとえ誰にも気づかれなくても、それでいい。
サトウさんの無言の称賛
事務所に戻ると、サトウさんがいつもより静かだった。目線だけで「よくやった」と言っている気がした。
冷えた缶コーヒーが、デスクの上にぽんと置かれていた。
コーヒーを差し出すその理由
「どうせ甘党でしょ」と呟いて、彼女はコピー機に向かった。その背中を見ながら、コーヒーを一口すする。
ほっとする甘さが、口の中に広がった。
事件後の静けさといつもの愚痴
デスクに戻り、山のような書類を前にため息が漏れる。「やれやれ、、、独身司法書士に休みはないな」
だが、どこか心は少しだけ軽くなっていた。明日もまた、新しい事件が始まるかもしれない。
「独身司法書士に休みはない」
それでもやるしかない。誰かがやらなきゃならない仕事なのだ。小さな事務所の片隅で、また静かに物語が始まろうとしていた。
それは、司法書士の“日常という名の非日常”だった。