誠実であることが武器にならない瞬間
司法書士として、誠実であることは当たり前であり、信頼を得るための土台です。でも、ふとした瞬間に「誠実だけど面白くないよね」と言われることがあります。昔からふざけるのが得意じゃなく、真面目な対応を続けてきた結果、場の空気を和ませる役割にはなれませんでした。特に仕事では誤解を避けたいという気持ちが強く、つい堅くなってしまうんです。でもそれが、距離を生む原因になっているのかもしれない——そう思う瞬間が増えてきました。
正直者がバカを見るって本当なのか
学生の頃から、正直に物事を話すのが癖でした。先生に「間違いは間違いだ」と言えば、評価はされたけれど友達は減りました。社会人になっても、「それはできません」と言えばトラブルは回避できるけれど、柔軟性がないと言われます。ある意味、誠実な対応はリスク管理の一つですが、人間関係では損をする場面が多いのも事実です。言い方ひとつで場が和らぐとわかっていても、それができない自分に苛立つこともあります。
笑いが取れない正義感
ある日、取引先との会食での話。場を盛り上げようとした誰かの軽口に、僕は真顔で「それはちょっと不適切では…」と反応してしまいました。その瞬間、空気が凍ったのが分かりました。自分では悪意もなく、正義感からの発言でしたが、結果としては“場の空気を読めない人”になってしまったんです。誠実さが、場を壊す爆弾になることもある。正しいことを言っても、それが歓迎されるとは限らない。そんな現実を思い知らされた出来事でした。
冗談よりも慎重さが勝ってしまう
たとえば「この書類、間違ってたらどうなるんですか?」と軽く聞かれた時、僕は「最悪の場合、登記が無効になります」と真顔で答えてしまいます。もちろんそれは事実ですが、たいていの人は「いや、ちょっと笑ってほしいだけだったんだけど…」という反応になります。どうしても“ふざけて誤解される”ことを恐れてしまう自分がいる。そこに誠実さがあると信じていたけど、それが人を遠ざけることもあるんですよね。
場を和ませることができない自分へのジレンマ
司法書士事務所という堅い仕事柄、冗談を言う場面自体が少ないのも事実です。でも、それでも人と人との関係がある限り、“空気を和らげる力”は必要です。事務員さんがちょっとした冗談を言ってくれると空気が軽くなる。そういうとき、僕は内心感謝しつつも、「自分もそうできたらな」と思ってしまいます。頑張って明るくしようとしても、不自然になってしまう。無理をすればするほど、逆効果になってしまうジレンマがあります。
お酒の席での空回り
飲み会の場で、笑いを取ろうとしたけど、誰も笑わず、逆にフォローされるという経験も何度かあります。「いや〜まじめだな〜」「誠実すぎて笑えないよ」と言われてしまう。自分としては一生懸命場を和ませようとしたつもりなのに、結果はただの“痛い人”。こういう失敗の積み重ねが、ますます自分を無口にさせていきます。苦笑いされるくらいなら、黙っていた方がマシだと。
「まじめだね」で終わる悲しさ
婚活イベントや初対面の場でよく言われるのが「まじめそうですね」。もちろん悪口ではない。でもその後が続かないんです。「まじめ=退屈」として処理されてしまう。相手の興味を引くには、少しのユーモアや軽さが必要だとわかっていても、そこに飛び込めない。気づけば「安心はされるけど、面白くはない人」になっている。まじめさが、自分の存在を無色にしてしまっているような感覚があります。
面白さって何なのか分からなくなる夜
仕事を終えて、夜ひとりでいると「自分は何のために面白くなろうとしているんだろう?」と考えてしまいます。誠実であることを大切にしてきたはずなのに、“面白くない”と言われることで、どこか否定されているような気持ちになる。誰かと深くつながるには、笑いが必要なのかもしれない。そう思うたび、自分の表現力や存在の軽さを振り返ってしまいます。
元野球部のノリは封印したほうがいいのか問題
若い頃、野球部ではよく声を張って盛り上げていました。でも社会に出てからは、そのノリは歓迎されないことの方が多い。体育会系の勢いが“暑苦しい”と感じられる時代に、あえて無理して明るくすることが逆効果になることもあります。特に地方の司法書士という立場では、“落ち着き”が求められる。だから、元野球部のテンションは自然と封印され、気づけば静かな人間になっていました。
武勇伝が求められていない現実
昔の苦労話や失敗談で笑いを取ろうとしても、反応は薄いことが多いです。「大変だったんですね」と言われるだけで終わる。こちらとしては笑ってほしいのに、相手は気を遣ってしまう。それは、話し方や表現の技術不足なんだと自覚しています。でも、技術でカバーできない“雰囲気”ってあると思うんです。そして僕には、その空気をつくる力が、どうしても足りない。
自虐ネタも滑りがち
「どうせモテませんし」と笑って言ったつもりが、相手が苦笑して話題を変える——そんなことが何度かありました。自虐が笑いになるには、ある種の余裕とか、明るさが必要なんでしょうね。でも僕の場合、それが“本気っぽく”聞こえてしまう。笑わせようとしてるのに、心配されて終わる。そういうとき、自分でも“なんか違うな…”と思います。
お客様には誠実が好まれる でもそれだけじゃダメ?
司法書士としては、ミスをしない、丁寧に説明する、約束を守る——そういった誠実さが信頼につながっています。それはありがたいことです。でも、ふと感じるのは「またこの人に頼もう」と思ってもらえるかどうかということ。事務的に完璧でも、印象に残らなければリピートにはつながらない。誠実さだけでは、記憶に残る存在にはなれないのかもしれません。
信頼はある でも印象に残らない
とある依頼者に「すごく安心して任せられました。でも、名前が思い出せなくて検索しました」と言われたことがあります。仕事の質では評価されていたけど、“人としての印象”は薄かった。地味で無難な対応は、記憶には残らない。そこに気づいた時、自分のスタイルが少し怖くなりました。「信頼されている=選ばれ続ける」ではないということです。
クチコミに書かれない理由
僕の事務所にはほとんどクチコミがありません。トラブルも苦情もない。にもかかわらず、誰も感想を書いてくれない。それは、良くも悪くも“感情を動かす何か”が足りないからだと思います。面白さや親しみやすさがないから、印象が薄い。これは単なるサービスの問題ではなく、自分自身の“存在感”の課題なのかもしれません。
そもそも僕は誰にどう見られたいのか
誠実な人として生きていくことに疑問はないけれど、それだけではどこか物足りない。じゃあ僕は、誰に、どんな風に見られたいのか。それを考えると、答えはぼんやりとしか見えてこない。好かれたいけど、無理はしたくない。印象に残りたいけど、自分を偽りたくない。そうやって、今日も悩みながら机に向かっています。