誰かの温もりが残るこの部屋で
朝、目覚めた瞬間に感じる静寂。その中に、ふと誰かの気配を感じることがある。実際には誰もいない。でも、そこに確かにあった「温もり」の記憶が、空気に残っているような気がする。自分で選んだ一人暮らしの生活。仕事に集中するため、干渉されない時間が欲しくてそうした。でも、朝の光が差し込む部屋にただ一人でいると、かつてそこにあった誰かの存在が思い出されて、心が締めつけられる。司法書士という仕事は淡々としていて、感情を持ち込まないことが求められる。でも、人間である以上、過去の記憶や温もりがふいに心を揺さぶってくる。
季節の変わり目にふと蘇る記憶
春や秋のような、どこか物寂しい季節になると、決まって昔の記憶が浮かんでくる。特に、ほんの少し肌寒くなった朝なんかは要注意だ。目が覚めて、布団の端に手を伸ばしたときに、昔誰かが隣にいたことを思い出す。温かかった布団の中、交わした何気ない会話、忙しい朝でも笑っていた時間。そのすべてがもう手の届かないものになってしまったことを、こういう季節が教えてくれる。書類に囲まれて働いているときには忘れていられるのに、ふとした気温や光の加減で、心の奥から思い出が顔を出す。
朝の光と残されたカップ
ある日、久しぶりに休日の朝にゆっくりとコーヒーを淹れた。使っているのはもう何年も前からのマグカップ。でも、そのカップは元々二つあったセットの片方。もう一方は、別れた彼女が置いていったもので、気づいたら処分してしまっていた。窓から差し込む光の中で、そのカップを手に取ったとき、彼女が使っていた様子が頭に浮かんだ。別にドラマのような別れ方をしたわけではない。ただ、互いに少しずつすれ違っていった結果。でも、その「ぬくもりの記憶」だけは、なぜか今でも妙に鮮明に残っている。
空気の匂いで思い出す存在
人は視覚よりも嗅覚で記憶がよみがえるというけれど、それは本当だと思う。季節の変わり目、部屋に入った瞬間の空気の匂いで、かつての誰かの香水の香りや洗濯洗剤の匂いを思い出すことがある。そんなとき、心が勝手にその人を追いかけ始める。思い出したくないのに、思い出してしまう。あの頃の自分の不器用さも、優しさを受け止めきれなかった情けなさも、全部セットで蘇ってくる。今の自分は多少は成長したつもりでも、やっぱり「失ってから気づく温もり」に弱い。
仕事があるからこそ感じる孤独
司法書士という仕事は、人と深く関わっているようでいて、実はとても孤独な職業だ。人の人生の節目に立ち会うこともあるが、それはあくまで業務の一環。依頼人とは深く入り込まず、冷静に手続きをこなすのが求められる。そのせいか、私生活でもどこか壁を作る癖がついてしまった。自分では意識していないけれど、「一人でも平気」と強がっているうちに、本当に一人になってしまった。事務員さんは気の利く方だけど、仕事が終わればそれぞれの生活。誰かと心を通わせることが、どんどん難しくなっていく。
書類に囲まれても満たされない
事務所にいると、常に何かしらの書類に追われている。登記の申請書、不動産の契約書、相続関係説明図…。ひとつ終わればまた次の案件が来る。その繰り返し。効率よく仕事を回せるようにはなってきたけど、ふと手を止めたとき、心が空っぽになっていることに気づく。やるべきことは山積みなのに、「誰かと笑い合った」とか「一緒に夕飯を食べた」とか、そういう記憶がごっそり抜け落ちている。忙しさに流されて、心の栄養を取るのを忘れてしまっていた。
事務員さんの気遣いが沁みる日もある
ある日、私が珍しく昼食をとるのを忘れていた時、事務員さんが「先生、これ食べてください」とおにぎりを差し出してくれた。あまりにも自然な優しさで、思わず涙が出そうになった。「誰かが自分のことを気にかけてくれる」というのは、こんなに沁みるものなのかと驚いた。彼女は特別な存在ではない。ただの職場の同僚だ。でも、そのちょっとした気遣いが、自分にとってどれだけありがたいかを思い知った。温もりって、派手なものじゃなくて、こういう何気ない行動に宿るんだと思う。
あの時の優しさが今の痛みになる
不思議なことに、人は苦しめられた言葉より、優しかった言葉の方が後々刺さる。あの時の「ありがとう」や「無理しないでね」が、今になって胸に重くのしかかる。思い出は美化されるというけれど、確かにそうだ。あの人といた時間は、現実にはそれなりにケンカもしたし、面倒なこともあったはずなのに、記憶の中ではただ温かく、懐かしいだけになっている。そのせいで、今の自分がどれだけ寒々しく見えてしまうか。思い出に負けてしまいそうな朝がある。
自分から離れていった人を責められない
別れたとき、相手を責める気持ちはまったくなかった。むしろ、「よくここまで我慢してくれたな」と思った。私の生活は仕事中心で、急な対応も多く、ドタキャンは日常茶飯事。何度も「また今度ね」と言っては、約束を守れずにいた。相手にしてみれば、いくら好きでも、そんな相手と一緒に未来を描くのは難しかったと思う。だから、未練はあるけど恨みはない。ただ、だからこそ苦しい。「自分のせいで失った」ことが分かっているから、悔しさよりも自己嫌悪のほうが勝ってしまう。
なぜあの時ちゃんと向き合えなかったのか
一番後悔しているのは、相手の言葉をちゃんと受け止めなかったことだ。「もう少しだけでいいから時間を作って」と言われたことがある。でもその時は、「今は忙しいから落ち着いたら」と流してしまった。今思えば、その「少し」の時間がどれだけ大事だったか。今は時間なんていくらでもある。でも、それを一緒に過ごせる相手はいない。時間って、自分だけじゃどうにもできない。誰かと共有して初めて意味があるものなんだと、今になって気づいた。
後悔の記憶にすら支えられている
皮肉なことに、その後悔の記憶が、今の自分の支えになっている部分もある。「もう同じ過ちは繰り返さないようにしよう」とか、「今、目の前にいる人を大事にしよう」と思えるようになったのは、あの別れがあったからかもしれない。過去の温もりは、時に自分を苦しめるけれど、同時に前へ進むための指標にもなってくれる。そう思うことで、ようやく少しずつ気持ちの整理がつきはじめている。