朝起きて後悔する自由な時間
「今日は休みだ」と目が覚めた瞬間、心が軽くなるどころか妙に重たくなる。それがここ数年の私のパターンだ。仕事に追われているときは「休みさえあれば」と思うくせに、いざ休みが訪れると何をしていいか分からず戸惑う。まるで予定のない空白のキャンバスを前にして、絵の描き方を忘れてしまった画家のような気分だ。世間では「自由な時間は贅沢」と言われるけれど、独身でひとりで過ごす休みは、むしろ不安や焦りを連れてくる。
誰にも邪魔されないのに喜べない朝
休みの日の朝、目覚ましも鳴らず、誰かに呼ばれることもない。ゆっくり寝ていいはずなのに、平日と同じ時間に目が覚めてしまう。布団の中でぼーっと天井を見上げながら、「今日一日、何をしたらいいんだろう」と思う自分がいる。誰とも話さない日が来ると分かっていると、起きるのがちょっと怖くなる。人間、自由が多すぎると動けなくなるのだろうか。仕事のある日のほうがまだ、動かされている分だけ気が楽だったりする。
ついスマホを触って1時間経過
朝起きて、まず手に取るのがスマホ。ニュースを読んで、SNSをスクロールして、気づけば1時間。何かを得た感覚はまったくないのに、時間だけが消えている。自己肯定感はどんどん下がっていく。昔の部活仲間が家族サービスしてる写真を見ては「俺、何やってるんだろうな」とため息が出る。時間を潰しているつもりが、時間に潰されている気分になる。
やることがないのに焦るという矛盾
予定がないのに、なぜか焦る。何かしなきゃ、時間を無駄にしてはいけない──そう思えば思うほど、動けなくなる。やろうと思っていたことに手を付けられないまま、昼が来て、夕方になり、夜になる。休日のはずなのに、何もできなかった自分に落ち込む。心のどこかで「ちゃんとした休日を過ごさなきゃ」と思い込んでいるのかもしれない。でも、ちゃんとってなんだろう。何が“正しい休日”なんだろう。
ひとり時間の使い方がわからない
ひとり時間。それは多くの人が憧れる自由時間だけれど、私にとっては難問でもある。誰かと過ごすわけでもなく、目的もなく過ごす時間は、自由というより「空白」に近い。あれをしよう、これをしようと前日までは思っているのに、当日になるとどれも面倒に感じてしまう。ひとりの時間は、油断すると一気に“無の時間”になる。独身の休日は、楽しむスキルが問われる。
本でも読めばいいと頭では分かっている
読もうと思って買ったままの本が、机の上に何冊も積まれている。「時間ができたら読もう」と思っていたのに、いざ時間ができると手が伸びない。何となく気持ちが乗らない。本を読むという行為が、妙にハードル高く感じてしまうのだ。本を読む余裕がないのではなく、読んでも得るものがあるのか分からない不安がある。結局、テレビのリモコンに手が伸びてしまう。
読もうとした瞬間に眠くなる問題
「今度こそ」と意を決して本を開く。ところが2ページほど読んだところで、まぶたが重くなる。読書が睡眠導入剤に早変わり。本棚には「読みかけのまま」の本がずらりと並ぶ。昔は集中力があったはずなのに、今は文字が頭に入ってこない。「老化かな」と思いつつ、「休日に集中できる精神力が欲しい」とつぶやいてみる。けれど結局は、何もしないでいい理由を探している自分がいる。
結局テレビの再放送に救われる
そうやって色々失敗した末に、なんとなくつけたテレビで昔のドラマの再放送を観ると、妙に落ち着く。セリフも展開も覚えているのに、それがちょうどいい。誰かが話していて、何かが起きていて、でも自分は関与しなくていい。その距離感が、休日の孤独を少し和らげてくれる。こういう“どうでもいいようで大事なもの”が、ひとり暮らしには必要なのかもしれない。
元野球部だったことが役に立たない
高校まで野球部で過ごしていた頃は、休日という概念すらなかった。常に練習、練習、試合。身体を動かしているのが当たり前だった。それが今では、肩すら回らない始末。バットを握る機会もなければ、キャッチボールをする相手もいない。健康のために運動を…と考えるけれど、一人でできる運動にモチベーションが続かない。元野球部のプライドだけが、ポケットに残っている。
キャッチボールできる相手がいない
休日にグラブを持って公園へ行こうと思ったことがある。でも、キャッチボールは相手がいなければ成り立たない。一人で壁当てでもすればいいのかもしれないが、それはそれでむなしさが募る。結局グラブは押し入れの奥で眠ったまま。友人たちは家庭を持ち、子どもと遊ぶ休日。かつて一緒に汗を流した仲間たちの背中が、どんどん遠くなっていく。
バットを振る場所もない
素振りでもしようと考えたこともある。だが、住宅地のど真ん中でバットを振る姿は、なかなかの異物感だ。夜にこっそり振ってみたが、風の音に混じって「何やってんだ俺…」と自己嫌悪が押し寄せた。昔のように「バッセン行こうぜ」と言える仲間もいない。社会人になると、“ちょっと運動”のハードルが一気に上がるのを痛感する。
筋肉痛だけは健在
たまに気合いを入れて身体を動かすと、翌日は全身筋肉痛。特にふくらはぎと肩が重くなる。昔なら翌日に引いた痛みも、今では三日残るのがデフォルト。歳を取るとは、こういうことかと実感する。にもかかわらず、「もっと動かなきゃな」と自分を奮い立たせる声だけは元気。元野球部魂が、まだ少しだけ残っている。
休日に救われた瞬間を探して
こんなふうに、何も得られなかったような休日も、思い返してみれば小さな救いがあることに気づく。誰かとの些細なやりとり、美味しいごはん、たまたま観た番組の一言…。劇的な出来事じゃなくても、ちょっとしたことで「今日は悪くなかったな」と思える瞬間がある。それを見逃さないようにしたい。そう思うようになっただけでも、少しは前向きになれた気がする。
昔の友人からの連絡に泣きそうになる
ある休日、何年も連絡を取っていなかった同級生から突然メッセージが来た。「元気か?」──それだけの言葉なのに、胸が熱くなった。たまたま近くまで来ていたらしく、30分ほど話して別れた。特別な話はなかったけれど、人と直接会って笑うって、こんなに心が救われるのかと実感した。休日は、誰かと繋がれるだけで特別なものになる。
おいしいものが全てを肯定してくれた日
一人で外食することに慣れているけれど、たまに入ったお店で驚くほど美味しい料理に出会うと、それだけでその日が報われた気がする。とくに、味にうるさい自分が唸るような店に出会ったときは、「この一食のために今日があった」と思える。孤独を紛らわせるには、人じゃなくて味覚でも十分なんだと、しみじみ思った日もあった。
それでもまた次の休日が怖い
こうして少しでも満たされた休日があったとしても、また来週、カレンダーに空白があるのを見るとやっぱり憂鬱になる。「何をしよう」と構えると何もできなくなる。でも、構えなくても不安になる。このループから抜け出す方法は、いまだ見つからない。だけど少しずつ、完璧じゃない休日を受け入れていこうと思う。休日に悩むのは、きっと私だけじゃないはずだ。