家庭がないことで疑われる「共感力」
司法書士として長年やっていると、相談内容には人生そのものが詰まっている。離婚、相続、養育費…家庭に関わる話も少なくない。ところがある日、相談者から「家庭もない人に何がわかるんですか?」と投げられた言葉が、心にずしんと残った。事実だから余計に響いた。「共感してくれている気がしない」とまで言われると、自分の存在意義が崩れるような感覚になる。経験がないと、本当に理解できないのか。そもそも共感とは経験だけに基づくものなのか。
「経験してないなら語るな」の壁
家庭を持っていないというだけで、「語る資格がない」とされる場面は意外に多い。これは司法書士に限らず、あらゆる対人支援職に共通する壁かもしれない。特に相続や遺言の相談では、相談者が家族間の複雑な感情をぶつけてくる。そのとき、「家庭を持ったことがあるのか」が、信頼の判断材料にされることがある。ある意味で、過去の恋愛経験を問われるような、プライベートに土足で踏み込まれる感覚だ。
司法書士としての知識は通じないのか
理屈では対応できないことがあると理解しているつもりだった。でも、知識も実績も、それまでの努力も、たった一言で粉々になるような瞬間がある。事実、家庭がない。それを理由に「わかってくれない」と言われれば、否定できない。だが、それでも私は数え切れないほどの家庭の問題を扱ってきた。泣きながら相談してきた依頼者の隣に座り、静かに話を聞いてきた時間に、意味はなかったのかと自問する。
現場のリアルに「家族持ち」の肩書きがついてまわる
地域の会合や成年後見の現場など、司法書士が人前で話す場面では、「家庭のある先生」と紹介されることがある。これが信頼の証になることもあるのだろう。しかし、私にはその紹介がない。家庭がないという「欠落」に視線が集まる。独身であることは、無言のうちに「人間的に何かが足りないのでは」というレッテルにつながる。この感覚は、なかなか言葉にしづらいが、現実として存在している。
ある相談者とのやりとりから始まった違和感
あの日、相談に来たのは50代の女性だった。父親の相続で兄と揉めているという話だったが、感情が高ぶり、「あなたは家庭がないからこの気持ちがわからない」と言われた。私は淡々と手続きを説明したが、その言葉が胸に刺さって抜けなかった。プロとして割り切るべきだとは思いつつ、「家庭がない人に相談しても無駄」と思われる空気に、強烈な違和感を覚えた。
説得力は「肩書き」ではなく「聴き方」で決まるはず
説得力とは、経験の有無ではなく、相手の言葉にどう耳を傾け、どれだけ誠実に応えるかで生まれるものだと信じてきた。私は元野球部で、声は大きいが怒鳴ることはしない。静かに、落ち着いて、相談者の話を聴く。言葉を選び、押しつけない。それでも、「結婚してないから説得力がない」と言われると、土俵にも立たせてもらえない悔しさがこみ上げる。
でも実際は「家族がいないからわからないでしょ」で片づけられる
この言葉は実に便利だ。相手の話を聞かなくて済む免罪符のように使える。「家庭がないから」という一言で、すべてを無効化される。そういう時代だと言ってしまえばそれまでだが、努力を重ねてきた立場としては、やりきれなさしか残らない。逆に言えば、家族がいるというだけで、未経験の分野でも「わかってくれそう」と思われることもある。それが理不尽だとは思わないが、やはり寂しい。
独身男性というだけで専門家の立場を奪われるもどかしさ
司法書士という専門職であっても、「結婚してるかどうか」が評価に直結する場面があるとは思っていなかった。だが、実際には少なくない。行政関係者や町内会の人たちとのやり取りでも、「あの人は独り者だからなあ」と小声で言われることがある。何も悪いことはしていないのに、まるで欠陥があるかのように扱われることがあるのだ。これは本当に辛い。
結婚していたら違ったのかと考える夜
ふとした瞬間に、思う。「結婚していたら、もう少し信用されていたのかな」と。人生に“もしも”はないとわかっている。でも、誰かの言葉や態度がきっかけで、自分の生き方そのものが間違っていたのではないかという不安に襲われる夜がある。家庭があることが“普通”とされる世界で、普通ではない自分に気づいてしまう夜は、特に心に堪える。
家庭を持たない生き方が軽く見られる現実
私は家庭を持たなかったのではなく、持てなかった。正直に言うと、女性にはまったくモテなかった。性格は優しい方だと思うが、それだけではパートナーは見つからなかった。だからこそ、今の自分にできることを必死に積み上げてきた。それでも、家庭を持っていないという一点だけで、信用や説得力が揺らぐというのは、やはり納得しがたいものがある。
自分の価値は「家族構成」で決まるのか
家族がいるかどうかでその人の価値が測られるなら、私はずっと“低評価”ということになる。でも、それは違うと思いたい。私は家族の代わりに、仕事を選んだわけではないが、仕事に人生を懸けてきた。何人もの依頼者に寄り添ってきた。それを、「家庭がないから」で片づけられるのは、やはり悲しい。
仕事の中で築いてきた「別の信頼」
それでも、信頼は積み上げられる。家庭を持っていなくても、人に寄り添い、誠実に対応することで築ける信頼もある。それは地味で、目立たないかもしれないが、確かにある。ある高齢の依頼者が、「あんたがいてくれて助かった」と泣いてくれたことがあった。あのときの手の温もりは、今でも忘れられない。
何百人と接してきた中で得た説得力の源
家庭があるかないかよりも、いかに多くの人と真摯に向き合ってきたか。それが私の説得力の根源だと思っている。婚姻歴もなければ子どももいない私だが、相談者の涙に何度も立ち会ってきた。言葉ではなく、「その場にいてくれる安心感」を大切にしてきた。そういう時間の積み重ねこそが、信頼を作ると信じている。
家族がいなくても、支えた人の数なら負けていない
私は誰かの夫でも父親でもない。でも、たくさんの人の力になってきた自負がある。家族を支えるのと同じくらいの覚悟で、仕事に向き合ってきたつもりだ。だから、家庭がないという事実を劣等感にせず、支えた人の数を誇りにしていきたい。どんな形であれ、誰かの力になる人生に意味がないはずがない。
「家庭がない」は武器にならないが、言い訳にはしない
正直、家庭がないことがプラスに働いた場面は思いつかない。でも、それを言い訳にしないことが、私の選んだ覚悟だ。ないものを数えるより、あるものを磨くしかない。モテなくても、愚痴っぽくても、誰かの力になれているなら、それで十分だと思えるようになってきた。
それでも独身を続ける理由
孤独もあるが、自由もある。人と暮らさないことで守れる時間があり、それを誰かのために使えることもある。家庭がないことで、心に余白ができているのかもしれない。そんなふうに思えるようになってきた。夜が長く感じる日はある。でも、自分で選んだ道だからこそ、胸を張って歩きたい。
誰にも邪魔されない自由と孤独
朝、誰にも起こされずに出勤し、夜は誰にも文句を言われずに帰ってくる。自由だが、少し味気ない日々。それでも、仕事に集中できる時間は確保できている。結婚していたらどうなっていたか――そんなことを考えるのは、もうやめた。ないものを嘆くより、今の生活に意味を見出したい。
モテなかった青春と、今のさみしさ
元野球部だったが、坊主頭のまま三年間を終え、モテることは一度もなかった。そのまま、なんとなく結婚のタイミングを逃し、気づけば45歳。今さら焦っても仕方がない。でも、たまに駅で手をつなぐ家族連れを見ると、心がキュッとなる。そんなときは、家に帰って熱い味噌汁を作って、自分を労わる。
それでもこの道を選んでよかったと思える日もある
家庭はなくても、やってきたことが誰かの役に立っていると実感できる日は、心が満たされる。あの相談者に「ありがとう」と言われたとき、自分の道も悪くなかったと思えた。自分の価値を、自分で認めてやらなければ、誰も認めてくれない。そう気づいた日から、少しずつだが、前を向けるようになった。