誰も悪くないでも誰かが傷ついてしまう仕事

誰も悪くないでも誰かが傷ついてしまう仕事

静かに傷ついていく仕事の現場

司法書士の仕事というのは、誰かの人生の節目に関わる仕事です。登記、相続、成年後見――書類の向こうに必ず人の感情があります。でも、こちらは感情ではなく事実を扱う。だからこそ、必要以上に距離をとってしまうことがあるのです。誰も悪くないのに、ふとした一言で相手を傷つけてしまったり、逆にこちらが理不尽に責められてしまうこともある。心の奥にじわじわと積もる疲労感。それが、私たちが静かに傷ついていく理由のひとつかもしれません。

誰が悪いわけでもないという現実

相続で揉めている兄弟がいます。依頼主は長男ですが、次男は完全に納得していない。私の立場としては法律の範囲内で中立に進めるしかありません。けれど、「司法書士さんは兄貴の味方なんですね」と言われてしまったとき、正直なところ、胸がチクリと痛みました。誰も悪くないんです。ただ、お互いの感情がぶつかり合っているだけ。だけどその中で、こちらの姿勢ひとつで傷つく人が出てくる。この現実は、何年経っても慣れません。

依頼人も被害者であり加害者であるとき

あるとき、遺言書の検認手続きを手伝った依頼人が「母の最後の願いがこんなふうに扱われるなんて」と涙ぐんで言いました。その言葉に、私は何も返せませんでした。実際、彼女の主張は法律的には通らなかったのですが、感情的には完全に正しいと思えました。でも、私の仕事はあくまで「正しい手続き」を進めること。依頼人も、そのプロセスの中で傷つき、また他の親族を傷つけてしまっている。お互いが被害者であり、加害者である――そんな場面に立ち会うたび、やるせなさだけが残ります。

感情を飲み込むことでしか進まない仕事

私自身も、何度も飲み込んできました。心の中では「それはあんまりだよな」と思っても、感情を出した時点で中立性が崩れる。司法書士という肩書きの下では、あくまで冷静でいなければならない。けれど、時折ふと湧き上がる無力感や、感情の波は抑えきれないものです。帰り道、車の中でひとりになった瞬間にドッと疲れが出る。そういう日は、家に帰ってもテレビをつける気にもなれません。誰も悪くないのに、どうしてこんなに重たいんだろう、と自分に問いかけてしまうのです。

感謝されることより誤解されることが多い

司法書士って何をしてるんですか?と聞かれることは多いです。説明しても「へぇ、そうなんですね」で終わってしまうことがほとんど。実際、業務を依頼されている方ですら、私たちの仕事の全体像を理解しているとは限りません。そのせいか、誤解されることも多いです。「なんでそんなに時間がかかるの?」「たったそれだけの書類でこの値段?」……何度聞かれたかわかりません。私たちは常に説明責任と誤解との戦いです。

正しく仕事をしても嫌われる場面

昔、成年後見の仕事をした際、本人のためにきちんと資産管理を行ったのですが、親族から「お前が財産を握ってるから使いづらい」と責められたことがあります。こっちは制度に則って、まっとうにやっているだけ。でも、感情のぶつけどころとして選ばれるのは私。正しく仕事をしているだけなのに、相手にとっては都合が悪い。そういう場面では、こちらが説明すればするほど、逆に「理屈で押しつけてくる」と誤解される。無力感だけが残りました。

「冷たい人ですね」と言われた日

「事務的に処理されて悲しかったです」と、メールの最後に書かれていたことがありました。その依頼人は、離婚に伴う財産分与の登記で訪れた女性でした。手続きは滞りなく進め、法的にも完璧に対応しました。それでも、彼女にとっては人生の一大事で、もっと寄り添ってほしかったのでしょう。だけど、私は彼女の感情に応える余裕も言葉も持てなかった。気づけば、その日の帰り道、助手席に置いた書類を見つめながら、なんとも言えない気持ちになっていました。

事実を伝えるだけなのに心が痛む

たとえば、遺産の分け方について「この分け方は不公平じゃないですか?」と聞かれることがあります。でも私は、「法律上は問題ありません」としか答えられない。感情的には「たしかに、そう思ってしまうよな」と共感する。でも、仕事としてはそこに踏み込んではいけない。そんなとき、自分が冷たい人間のように思えてくるのです。事実だけを伝える仕事なのに、どうしてこんなに心が擦り減るのか。事実と感情のギャップは、いつも私の中に残り続けています。

事務所の中でこぼす声と飲み込む本音

外ではどれだけ平静を装っていても、事務所の中では少しだけ本音をこぼすことがあります。といっても、聞いてくれるのは事務員の彼女くらいですが。彼女はよく気がつく人で、私の顔色や口数の少なさから「今日、何かありましたか?」と声をかけてくれる。そういう一言に救われる日もあります。ただ、本当はもっと弱音を吐きたい。そんな気持ちをぐっとこらえて、「いや、ちょっと疲れただけ」と笑ってみせる自分がいます。

事務員さんがいなかったらどうなっていたか

この仕事、事務員さんがいなかったらとっくに潰れてたと思います。手続きの補助だけでなく、精神的な支えとしての存在がどれほど大きいか。昼食を買いに出るとき、何気ない会話をするだけで、少し気が楽になります。もちろん愚痴ばかり言ってはいけないと思っていますが、「今日、ちょっとだけ聞いてくれますか?」とこぼした日、黙って頷いてくれた彼女の背中に、なんだか泣きたくなった記憶があります。

誰にも話せない疲れをどこに置くか

一人でやっていると、疲れの行き場がないんです。友人に話しても「お前は専門職だからいいじゃん」と言われてしまうし、家に帰っても誰かが待っているわけじゃない。元野球部だった頃の仲間とも、今では年賀状のやりとりすら無くなりました。だから、時々一人で夜のグラウンドに立ってみたりします。白線もない暗い土の上に、少しだけ昔の自分が浮かび上がる。そこで深呼吸してから、また明日の予約確認に戻るんです。

それでも続けている理由

辛いことばかり書いてきましたが、それでもやっぱり続けているのは、この仕事にしかない瞬間があるからです。ある高齢の依頼人が、手続き後にふと「先生のおかげで安心できた」と微笑んだ顔が今も忘れられません。たった一言。でも、その一言が何年も心に残っているんです。たまにしかないその瞬間のために、私は今日も書類をめくり、言葉を選び、誰かの人生の一端に向き合っているのだと思います。

ただひとつの「ありがとう」が胸に残る

登記が完了し、報告の電話を入れたときに「ほんとうに、ありがとうございました」と言われることがあります。形式的なお礼じゃなく、声に温度があるやつ。そういう言葉って、数は少なくても強く残ります。人は感謝された記憶で頑張れる。私はその一言のために、今日も少しだけ自分の感情を横に置いて、事実と向き合っています。報われない日もありますが、それでも、またその「ありがとう」に出会えるかもしれないと思えるのです。

野球部だった頃と似ている感覚

試合に勝ったときの歓喜も、負けたときの悔しさも、みんなと一緒に乗り越えた日々。今は一人きりの仕事だけど、どこかあの頃と似ています。泥まみれで走り込んでいた日々と、今の書類にまみれて格闘している自分。形は違っても、本気で向き合っているという点では同じなんだと感じます。誰も見ていない場所で努力すること、仲間がいなくても自分で自分を鼓舞すること、それが、あの頃の野球と今の司法書士という仕事をつないでいるのかもしれません。

勝ち負けじゃないと思える日がある

この仕事に「勝ち」や「成功」はありません。依頼人が納得し、少しでも安心して日常に戻ってくれること。それが唯一のゴール。でも時には、その過程で傷つけてしまうこともある。だからこそ、私はできる限り誠実に、丁寧に、逃げずに向き合いたい。勝ち負けではないけれど、今日という一日を無事に終えられたら、それが一番の成果。小さな積み重ねを大事にして、また明日も、誰かのために書類に向かうのです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓