せめて誰かにありがとうと言われたかった日

せめて誰かにありがとうと言われたかった日

ありがとうの一言が欲しいだけだった

司法書士という仕事は、誰かの役に立っていることは間違いない。登記を終え、契約書を整え、期限を守り、法に従って手続きを進めていく。でも、その過程で「ありがとう」と言われる機会は、驚くほど少ない。文句は言われる。催促はされる。だけど感謝は、ない。感謝されたくてこの仕事をしてるわけじゃない。でも、せめて一言くらい、あってもいいんじゃないかと思ってしまう。人に頼られることと、人に感謝されることは似てるようで、全然違う。

評価されない仕事の重み

たとえば、相続登記。誰もやりたがらない面倒な案件でも、こちらは必死に取り組む。戸籍を何十通も取り寄せ、何度も役所に電話をかけ、書類の整合性を確認する。たまに古い戸籍に読みづらい文字があり、虫眼鏡で一字一字確認したこともある。でも、それを依頼者が知ることはない。完成した登記簿謄本だけを見て「これでいいんですよね」と言われて終わる。仕事の重みは、完成物からは伝わらないのだ。

書類一枚に込めた責任感

ミスの許されない世界。書類一枚に間違いがあれば、取り返しのつかない事態にもなる。責任の重さに押しつぶされそうになることもある。補正通知が来るたびに胃が痛くなり、法務局の名前を見るだけでドキッとする。実際、登記完了のハンコが押されたとき、ホッとして肩から力が抜ける。誰にも気づかれない、小さな戦いの積み重ね。でもその戦いに対して、報酬以外の報いはほとんどない。

見えない努力が当たり前になる現実

一度ミスをせずに終えると、それが「当たり前」になる。期待値がどんどん上がっていき、次からもミスなしが当然になる。最初は「すごいですね」と言ってくれていた事務員も、今では何も言わない。感謝されるどころか、「いつも通り」くらいの顔で報告を聞かれる。まるで、自動販売機のように完璧なアウトプットを求められるような気分になる。

「ミスがない」のが当然という空気

司法書士にとって、完璧であることは基本だ。でもその完璧さは、しばしば「当然」と見なされる。登記が無事に終わっても、それはミスがなかっただけの話であって、誰も労わってはくれない。「ちゃんとやって当然」「プロなんだから」——その言葉の裏にある無言の圧力。間違いを恐れて慎重になるほど、神経はすり減っていくのに、周囲は気づかない。

完璧であることの孤独

以前、ほんの些細な手続きミスで依頼者に怒鳴られたことがある。何日も寝つきが悪くなり、「次は絶対に間違えられない」と自分に言い聞かせた。でも、その依頼者からは「ありがとう」はなかった。怒りには敏感でも、感謝には鈍感な人は多い。こちらはただ、誰かに「ありがとう」と言ってほしかっただけなのに。

感謝される人との距離

同じように働いている人でも、営業職や接客業の人は「ありがとう」をもらいやすい職種かもしれない。直接顔を合わせる機会が多いからだろう。でも司法書士は、間に不動産業者や金融機関が入ることが多く、依頼者と会うのは一度きりというケースも多い。頑張った分だけ、報われないと感じることもある。

不動産業者や金融機関との温度差

「この書類、今日中に頼みます」と軽く言われる。こちらの都合や業務量などお構いなしだ。急ぎの依頼を引き受けて、昼飯も食わずに処理しても、返ってくるのは「助かりました」よりも「じゃあ、あとはよろしく」ですらないこともある。結局、司法書士はただの通過点。その扱いが、地味に心を削っていく。

こっちは必死、あっちはルーティン

ある日、夕方に急に依頼が入り、残業して登記を間に合わせたことがある。帰り際、不動産業者の担当者は「じゃ、また」と言って帰っていった。自分は冷え切った事務所にひとり取り残され、夕飯はコンビニおにぎり。なんだか情けなくて、そのとき本当に「ありがとう」の一言が欲しかった。

お客様の言葉が支えになる瞬間

とはいえ、ごくたまにお客様から直接感謝の言葉をもらえることがある。顔を見て「先生、本当に助かりました」と言われると、胸がじんと熱くなる。その一言が、何日分もの疲れを一気に癒してくれる。それを味わいたくて、この仕事を続けているのかもしれない。

それでもたまに聞ける「ありがとう」

先日、認知症の父の相続登記を終えたお客様から、「父も安心していると思います」と言われた。そのとき初めて、誰かの人生に寄り添えたような気がした。涙をこらえながら、「こちらこそ、ありがとうございます」と返した自分がいた。

事務員の前で愚痴も言えない日々

一人雇っている事務員は、真面目でよくやってくれている。でも、彼女の前ではあまり愚痴をこぼせない。年下の女性に弱音を見せるのは、何となくカッコ悪い気がしてしまうからだ。結果として、ますます自分の中に疲れや怒りを溜め込んでしまう。

気遣いと孤独のせめぎあい

自分の不機嫌が伝染して、事務所の空気が悪くなるのが怖い。だから、疲れていても笑顔を作る。ミスがあっても大声を出さず、ひとりで処理する。だけど、そんな「気遣い」は逆に自分を追い込んでいく。孤独と優しさの板挟み。どうしても割に合わない気がしてしまう。

優しさが自分を追い詰める

優しくしていたい。できる限り穏やかでいたい。でも、自分がしんどくなっても誰にも気づいてもらえないのはつらい。人に優しくするって、こんなにしんどいんだっけ?と、ふと立ち止まってしまう夜もある。

愚痴も言えず、笑顔だけ貼りつけて

「今日はどうでしたか?」と聞かれても、「まぁ、普通ですね」と笑ってごまかす。心の中では、机をひっくり返したい気持ちでいっぱいなのに。誰かに「それはしんどいですね」と言ってもらえたら、救われる気がするのに。

昔の自分だったらもっと違ったかも

高校時代、野球部だった頃は、頑張れば頑張っただけ誰かが見てくれていた。エラーしても励ましてくれたし、ヒットを打てば全力で褒めてくれた。あの頃は「ありがとう」も「お疲れさま」も、もっと気軽に言い合えていた。

野球部だった頃のチームの温度

キャッチャーの後輩が「ナイスカバーです!」って言ってくれたとき、心の底から嬉しかった。試合後、皆で水をかけ合いながら笑っていたあの空気。勝ち負け以上に、人とのつながりがあった。それが、今の自分にはほとんどない。

褒められるよりも「ありがとう」が嬉しかった

誰かのためにやったことを、「すごいね」と褒められるより、「助かったよ」と言われる方が、ずっと心に響いていた。人間って、認められることよりも、必要とされることの方が大事なんだと思う。

一人で背負うようになってしまった理由

いつからだろう。人に頼られるのは好きだけど、頼るのは苦手になった。自分ひとりで抱えて、ひとりで疲れて、ひとりで寝る。それが「大人」だと、どこかで思ってしまったのかもしれない。

せめて自分だけは自分にありがとうと言いたい

誰にも言ってもらえないなら、自分で自分に言ってやろうと思う。「今日もよくやったよ」「本当によくやってるよ」と。そんな一言でも、少しだけ救われる気がする。

誰も言わないなら自分が言えばいい

朝から晩まで電話に追われ、書類に囲まれ、気づけば夕方。そんな毎日を、何事もなくやりきっているだけでも、十分にすごいと思う。誰かに褒められなくても、自分で自分を認めてあげてもいいんじゃないか。

それでも今日もやる理由

たとえ感謝されなくても、誰かの役に立っているという事実がある限り、この仕事を辞める気にはなれない。見返りがなくても、黙々とやる人間がこの世には必要なんだと、信じたい。

明日はちょっと誰かの「ありがとう」を待ってみる

明日、ほんの少しだけ期待してみよう。事務員の「お疲れさまです」とか、お客様の「助かりました」とか。小さな「ありがとう」が届く日があるかもしれない。そんな日を、ちょっとだけ楽しみにして眠ろうと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓