登記なら計算通りに終わるのに
司法書士という仕事をしていると、日々「予定通り」に物事が進むことの安心感に救われている自分に気づく。登記は必要な書類を揃え、期限を守れば、ちゃんと結果が返ってくる。法務局の職員とのやり取りも、多少の手直しはあるものの、基本的に理屈と手順で通じる。けれど、恋愛になるとまるで話が違う。あの人の気持ちは、いつだって法的根拠もなく宙ぶらりんで、こちらの真剣さが通じる保証なんてどこにもない。思い通りにならないことに慣れているはずなのに、恋だけは未だに「予定外」に振り回される。
手続きは予定通り進むけど
登記の現場では、必要な資料が揃っていれば、申請から完了までの流れはおおよそ読める。補正があっても内容を確認し、修正すれば通る。「結果が出る」という確実性は、精神衛生にもいい。自分がやったことに対して、明確なレスポンスがあるからだ。それに比べて、恋は…曖昧すぎる。よかれと思って送ったLINEに既読すらつかないまま日が過ぎると、「あれ?どこで間違えた?」と自問自答が始まる。申請書類ならチェックリストで見直せるのに、恋のアプローチにはそんなツールがない。
申請書類に裏切られることはない
申請書は、こちらが記入を間違えない限り、嘘はつかない。書かれていることをそのまま受け止めてくれる。だが、人はそうはいかない。「忙しかった」とか「気づかなかった」といった言葉の裏に、本音が隠れているのかもしれないと疑ってしまう。そしてその不安に、眠れない夜を過ごすことになる。仕事では「補正通知」で済むのに、恋では「沈黙」が答えになるのだ。
登記官とのやりとりの方がまだ読みやすい
法務局の担当者との会話は、要点が明確だ。必要なことを必要なだけ伝えれば、余計な駆け引きは不要。仕事では「無駄な期待」をしなくて済むのがありがたい。一方、恋愛では、相手の一言やスタンプ一つに「これは脈ありか?」と無駄に深読みしてしまう。そもそも恋愛というフィールドが、自分には過剰に不確定すぎて、生きにくい。
恋の相手にはスケジュールも見積もりも通用しない
昔、意を決してデートに誘った女性がいた。1週間前に連絡して、場所も時間もこちらで用意した。でも前日になって「ちょっと仕事が…」とキャンセル。翌週誘っても返信なし。そのままフェードアウト。登記なら予定通りに処理できるのに、恋愛ではこちらの誠意や段取りが無視されることもある。人の気持ちには締切も期限もない。それが一番苦手だ。
反応が遅いLINEに一喜一憂する日々
既読がついたのに返事がない、それだけで半日は気がそぞろになる。自分でも呆れる。仕事中に登記の申請を進めながら、ふとスマホを見て溜息。もしこれが登記の受付だったら、2日以内に返事があるのに、と無意味な比較をしてしまう。LINEの返信が届かない夜は、判決待ちのように落ち着かなくなる。
期待してしまうと痛い目にあう
「返事がないのは忙しいから」「たぶん悪気はない」そんな風に自分を納得させようとするけど、心のどこかで「きっとまた会える」と期待してしまう。でも、経験上、それで報われたことはない。恋は自分を過信させるものだと思う。登記は淡々と、恋は情熱的に、だからこそ後者はしんどい。
気持ちの登記簿があれば楽なのに
もし、相手の気持ちが法務局に登録されていて、第三者の照会で確認できたらどんなに楽だろう。心の登記簿謄本があって「この人はあなたに好意があります」と書かれていたら、どれだけ安心できるか。人の心が見えないから、あれこれ悩み、時には傷つく。でも見えないからこそ、少しの優しさが嬉しかったりもするのが、また厄介だ。
心の所有権はどこで確認できるのか
事務所に戻っても、ふと彼女のSNSを見てしまう。「この投稿、もしかしてあの人のこと…?」と所有権のない気持ちに勝手な妄想を膨らませる。でも実際には何の根拠もない。権利証のようなものがあれば、勝手な期待をせずに済むのに。恋愛に必要なのは、証明書ではなく、確認できる誠意なのかもしれない。
自分だけが熱を持っていると気づいた瞬間
ある時、送ったメッセージに「そうなんですね」とだけ返ってきたことがある。その瞬間、背中がスーッと冷えるような感覚がした。こちらだけが気持ちを注いでいたと分かった時の虚しさは、仕事では味わえない。熱意が一方通行になると、どれだけ自信を持っていても、自分が空っぽになる。
共有名義にならない関係の虚しさ
理想は「共有名義」だ。お互いが対等に思い合う関係。けれど現実は、こっちが土地と建物を買って、あっちは鍵を受け取らない状態。想いだけが一人歩きしている。気持ちを共有したくて何度もやり取りしても、相手は全然その気がない。書類だったら、ここで「解消合意書」を出せるのに。
恋の抹消登記は自己処理です
この人に気持ちを向けるのはやめよう。そう思ったとしても、恋の抹消登記は法務局では受け付けてくれない。手続きもなければ、証明書もない。自分で処理しなければならない、地味でしんどい作業だ。しかも、気を抜くとまた「ふと」思い出してしまうから、完全な削除は難しい。
報われなかった気持ちの整理方法
一度、失恋の夜に登記の完了通知が届いたことがあった。「少なくともこの仕事は片付いた」と思い、思わず笑ってしまった。報われない気持ちを整理するには、何か完了することが必要だ。片付いた仕事が、心の拠り所になる。整理とは「手放すこと」であり、何かを終えることで自分を落ち着かせている。
仕事に逃げても残るモヤモヤ
忙しくしていれば忘れられるかと思った。でも、登記簿の一行一行に集中しても、ふと手が止まることがある。恋の未了部分は、どこに提出すればいいのだろう。時間が解決するというけれど、それは本当に解決なのか、ただ風化しているだけなのか。未練というのは、登記では処理できない。
恋と仕事のすれ違いが生む疲労感
仕事も忙しい、恋もうまくいかない。そんな日が続くと、何に疲れているのかも分からなくなる。たまに早く帰れる日があっても、一人で食べる夕飯は味気ない。誰かと過ごす時間を求めていたはずなのに、その誰かは現れない。仕事の達成感すら、少し色あせて感じる。
誰かに頼りたくても頼れない日常
「疲れた」と言える相手がいないことが、一番の疲労かもしれない。事務所での会話は業務連絡のみ。家に帰れば無音の部屋。この静けさが、余計に感情を膨らませてしまう。人に弱音を吐くことが苦手な性格も相まって、余計に抱え込んでしまう。せめて、ブログの一文でも吐き出せる場があってよかった。
事務所での会話は業務連絡のみ
事務員との会話も「申請は済みました」「書類届きました」など必要最低限。無駄がないと言えば聞こえはいいが、情緒もない。たまに冗談を言っても苦笑いされるだけで、居場所のなさを感じる。昔はもっと冗談を言える性格だったのにと、自分でも驚くほど口数が減っている。
夕飯に誰かの好みを考えることがない
コンビニの弁当を手に取るとき、ふと「このメニュー、誰かの好みだったらな」と考える自分がいる。独身の生活は気楽なようで、孤独との付き合い方が難しい。誰かの「好き」を考える機会がないと、人はどんどん鈍くなる。恋も仕事も、誰かを思いやる気持ちがないと、感覚が鈍っていく。
恋愛に向いていない自分を受け入れるまで
若い頃は、恋愛に対してもう少し能動的だった気がする。でも、年を重ねるごとに「どうせ自分なんて」と心のどこかで諦めてしまっている。恋愛に向いてない、それを認めるのは悔しいけど、楽でもある。あとはその空白をどうやって埋めていくかだけが課題だ。
モテなかった学生時代の野球部時代
高校時代、野球部で真っ黒になって走っていた頃、女子との会話はほぼなかった。引退後、同窓会で「話しかけにくかった」と言われて驚いた。自分では明るいつもりだったのに。今も、その頃の人付き合いの不器用さが尾を引いている気がする。少しずつでも変わっていけるだろうか。
年齢とともに重たくなる告白の一言
「好きです」と言うのが怖くなった。若い頃は言えたのに、今はその一言に乗る意味が重すぎる。失敗したときのダメージも、回復までの時間も長くなるからだ。だからと言って何もしなければ、何も起きない。この年齢での恋は、リスク管理と覚悟がいる。まるで登記に似ている…いや、やっぱり全然違う。