年末のデスクは片付くのに心の中は年中散らかったまま
年末になると、司法書士事務所のデスクは急に整い始める。年末調整の時期で、領収書の山をファイルに収めたり、クライアントへの報告書を仕上げたり、形式的には「片付いた感」が出てくる。でも、ふとコーヒーを飲みながら一息ついたとき、心の中だけは妙にざわついたままで、整理どころかどこから手をつけていいかもわからない。書類は締切があるから動ける。でも心には締切がない。だからこそ、毎年片付かないまま、また年が明けるのだ。
紙の山はスキャンできても感情の山は行き場がない
この時期は特に、スキャンや電子申請で「書類の山」を一掃できた気になる。でも、あれもこれもと押し込めてきた気持ちの山だけはスキャナーに通すこともできず、データ化もできない。昔の依頼人の言葉が急に思い出されたり、あの時ああしておけば…という後悔が、決算書の余白からふと顔を出す。目に見えないものほど、年末になると妙に重たくのしかかってくるのはなぜだろう。
感情に目を向ける暇もない日常
日々の業務は「対応優先」の連続。朝イチの電話、午後の登記申請、夕方の相談者対応。それに加えて事務員の報告確認、郵送手続き…と、次から次へと片付けるタスクに追われ、感情に目を向ける余裕なんてどこにもない。「ちゃんと寝たら大丈夫」と思っていたけど、寝ても疲れが取れない感覚がじわじわと積もってきた。感情という名のゴミ箱は、とうに満杯なのかもしれない。
気づけば感情の置き場所をなくしていた
昔は日記をつけていた。大学時代、野球部の頃、練習の反省や将来の不安を文字にしていた。でも今は、書くどころか自分の気持ちを言語化する習慣すらなくなった。「書類を片付ける時間」はあっても、「気持ちを片付ける時間」は誰も与えてくれない。だから気づけば、自分の感情がどこに行ったのかわからなくなる。置き場所のない感情は、勝手に部屋の隅でホコリになっていくのだろう。
目の前の作業と後回しにする自分のこと
どうしても、自分のことは後回しになる。仕事では人の問題を整理し、手続きを整え、書類で証明する。だけど、自分自身のこととなると急に手が止まる。仕事中は「優先順位」で動くけど、自分の気持ちはいつも最下位に回されている。今日もまた、机の上のタスクを全部終わらせてからでないと、心のことには向き合えない。そんな日が、ずっと続いている。
事務員のミスにイラッとするけど怒れない
先日も、事務員が手続きの書類を逆に綴じていて、提出直前に気づいた。正直イラッとした。だけど、彼女も年末で忙しいのはわかってるし、自分だって余裕がない。だから「いいよ、直しとくね」としか言えなかった。たぶん、自分が怒るともっと場の空気がしんどくなるって分かってるから。でも、怒れないことで余計にストレスが溜まってしまう。そんな悪循環に気づきながらも、止められないのが現実だ。
本当は余裕がないだけなのかもしれない
人に優しくできるときって、自分に余裕があるときだと思う。最近は、その余裕が本当にない。ちょっとした事務ミスにも敏感になったり、無意識にため息が増えていたり。それって、結局は自分の心が張りつめている証拠なんだろう。何に対してこんなに焦ってるのか、誰に対して怒っているのか、それすらはっきりしない。ただひとつわかるのは、「余裕のない自分」が今、ここにいるということだ。
あの頃の自分なら今の自分をどう見るか
たまに、夜遅くに帰宅して、風呂にも入らず布団に転がっていると、ふと昔の自分の姿が浮かぶ。高校の野球部で汗だくになりながら、グラウンドで叫んでいた自分。あいつは、今の俺を見て何て言うだろう。「何ヘコんでんだよ」と笑うのか、「もっと自分を大事にしろよ」と言うのか。どちらにせよ、当時の自分の方が、今よりずっとエネルギーがあった気がして、ちょっと悔しい。
野球部の朝練で泣き言を言わなかったあの頃
朝練で真冬のグラウンドを走っていた頃、辛くても「寒い」なんて口にしなかった。みんなが我慢してるから、自分も弱音を吐けなかった。それが美徳だったし、負けたくなかった。でも、今の仕事ではどうだろう。しんどい時に「しんどい」と言う勇気すらなくて、ただ黙ってパソコンに向かっている。あの頃の無言の我慢は、仲間がいたからできた。でも今は、孤独の中での我慢。質が違う。
今の自分はどこで疲れてしまったのか
何が一番の原因だったのかは分からない。でも、毎日ちょっとずつ蓄積してきたものが、今の疲れになっているのは確かだ。誰かが悪いわけでもなく、自分の選んだ道でもある。だからこそ、簡単に「やめたい」とも言えない。でも本音を言えば、ちょっと休みたい。そんな心の声を、自分が一番無視してきた気がする。誰かが言ってくれる「おつかれさま」に、思わず涙が出そうになる夜もある。
がんばれと言える自分でいたいけど
「がんばれ」と人に言うことはある。でも、自分にはなかなか言えない。がんばるって何だろう、がんばった先に何があるんだろう。最近はそんなことばかり考えている。それでも、依頼人の前では明るく振る舞うし、事務員の前では冷静でいようとする。でも内心では、「自分が一番しんどい」と感じている。矛盾の中でも、なんとか今日を終わらせる。それが、今の自分の精一杯だ。
年末調整という名の業務に隠された孤独
年末調整の書類を黙々と整理しているとき、ふと無音の事務所に自分ひとりしかいないことに気づく。昼間は騒がしくて気づかなかったけれど、夕方以降はただの静寂だ。提出期限や控除額の確認に追われながらも、「誰かと話したい」と心のどこかで思っている。だけど、話す相手はいない。友達も少なく、彼女もいない。静かな時間が心地よいどころか、胸にズシンとくる。そういう年末が、毎年訪れる。
人の数字を整えるのは得意になった
所得控除や源泉徴収税額を見ながら、「これで大丈夫」と思える瞬間は確かにある。数字を整えるのは得意になったし、それでクライアントに感謝されることもある。でも、自分の感情や関係性、人との距離感はどうだろう。誰にも頼れないようにしている自分の方が、よっぽどいびつで、非効率だ。数字は論理で整理できるけど、心は違う。正解がないからこそ、向き合うのが億劫なのだ。
でも自分の気持ちは未記入のまま
年末調整の申告書には空欄が許されない。でも、自分の心には空欄がたくさんある。最近楽しかったことは?と聞かれても、答えられない。最近つらかったことは?と聞かれても、「わからない」としか言えない。自分の気持ちを書く欄があったら、ずっと「未記入」のままかもしれない。そう思うと、無性に切なくなる。「記入不要」として見て見ぬふりをしてきた心のページ、そろそろ開いてみてもいいのかもしれない。
書類と心の整理の共通点と決定的な違い
書類も心も「ため込むと面倒になる」のは同じ。でも、書類にはルールがあり、期限があり、解決方法がある。一方、心にはマニュアルもなければ、提出先もない。だからこそ、放っておくとどんどん混沌としていく。自分の気持ちを棚卸しする時間を意識的に持たなければ、ずっと「片付いていない部屋」に住み続けることになる。年末こそ、心の整理に少しだけ時間を割いてみようと思う。
チェックリストのない気持ちの片付け
登記の手続きにはチェックリストがある。書類に不備がないか、期限内か、必要書類が揃っているか。でも心にはそんな一覧表はない。「不安がたまっているか?」「孤独を感じていないか?」と自分で確認するしかない。毎年、年末調整の書類に追われながら、「誰かが自分の気持ちを整理してくれたら楽なのに」と思ってしまう。でもそれは、自分にしかできないことだと、どこかでわかっている。
完了ですと言い切れない自分との向き合い
書類には「完了」という言葉がある。でも、自分の気持ちには「完了」と言い切れる瞬間がなかなか来ない。悲しみも怒りも、時には喜びすらも、どこか中途半端なまま心に残る。そして、それを整理することを避けてしまう。でも、それでもいいのかもしれない。少しずつでも、自分の気持ちに向き合っていく。それが「未完了な自分」とうまく付き合っていく方法なんじゃないかと思っている。