人と関わるのが少し怖い司法書士のひとりごと

人と関わるのが少し怖い司法書士のひとりごと

人と関わるのが怖いという感情は弱さではない

司法書士という職業をしていると、どうしても人と関わらざるを得ません。相談者、金融機関、法務局、税理士、行政書士、弁護士、みんな「人」です。それでも、ふとした瞬間に「もう誰とも喋りたくないな」と感じる日があります。これは私が弱いからではなく、たぶん疲れているからなんだと思います。心のバッテリーが切れそうなとき、人の声や気配がちょっとした圧力になる。そんな気持ちに、同じように悩んでいる人がいたら、伝えたい。人と関わるのが怖いという感情は、決してダメなことじゃないということを。

「怖い」と感じたときの心の動き

私は昔から人見知りではありませんでした。むしろ話しかけられれば話す方でしたし、元野球部だったこともあって、チームで何かするのは苦ではありませんでした。それでも、司法書士になって10年以上経った今、「人と話すのが少し怖い」と感じることがあります。これはきっと、心が少し擦り減っている証拠なんだと思います。仕事で気を張る時間が長くなると、無意識に心を守ろうとするんでしょうね。

無意識に気を遣いすぎていることがある

相談者と接するとき、私はなるべく安心してもらいたくて、声のトーンや言葉選びにすごく気を遣っています。相手が不安そうにしていたら余計に気を配る。その積み重ねが、気づくと疲労として蓄積されていきます。帰宅して一人になってようやく「自分の言葉」を思い出す。そんな感覚です。これはサービス精神というより、ある意味、自分を守る手段なのかもしれません。

相手にどう見られているかを気にしすぎる

事務所を訪れる相談者の中には、怒っている人もいれば、不安定な人もいます。そういう人たちと話すとき、私はどうしても「機嫌を損ねないように」と意識してしまいます。お金を払って来ている以上、嫌な気持ちにさせたくない。でもその分、自分がどう見られているかばかりに気が向いてしまい、終わったあとどっと疲れるのです。結果、「もう誰とも話したくない」と思ってしまう日もあります。

誰とでもうまくやろうとする呪い

私は人に嫌われるのが怖いタイプです。だからこそ、誰とでも円滑にやろうとする癖が抜けません。でもそれは無理な話ですし、無理を続けると、どこかで心が折れてしまいます。それでも、長年のクセというのはなかなか抜けず、「いい人」でいる自分を演じ続けてしまう。ふと鏡を見たときに、自分が誰なのか分からなくなるような、そんな感覚に陥ることもあります。

正しさよりも穏便さを選ぶ日々

たとえば、登記の内容で相手が間違っていると分かっていても、強くは指摘できません。「あ、そうなんですね。でもこういう形の方がスムーズにいきますよ」なんて言い換える。たまには真正面から言ってしまいたい日もあるのに、そういう自分を封じてしまいます。争いごとが苦手なのもありますが、それ以上に、「嫌われたくない」気持ちが勝ってしまうんです。

反論されたくないから本音が言えない

本当は「それ、違います」と言いたい。でも言ったら怒られるかもしれない、面倒になるかもしれない。そう思って言葉を飲み込むことが癖になっています。事務所の外では、スーパーの店員さんとの何気ない会話すら、構えてしまうときがあります。だから時々、黙っていたくなるんです。本音が言えない生活って、地味に疲れるものですね。

司法書士という仕事が「人との関わり」を避けられない理由

司法書士の仕事は、とにかく「人と話すこと」が多いです。書類を作って終わり、というイメージを持たれがちですが、実際は相談を受け、調整し、交渉し、と、話す機会が山ほどあります。それがつらくなるときもあるけれど、この仕事の本質を思えば、避けて通ることはできません。だからこそ、自分の心の扱い方を工夫する必要があるのです。

相談業務におけるプレッシャーと緊張

「人生を左右する問題です」と目の前で言われると、こちらも真剣にならざるを得ません。でもそれが連日続くと、こちらの気持ちもだんだん削れてきます。もちろん専門家として責任を持つことは大切ですが、毎回120%で応え続けることはできません。心が冷たくならないように、でも燃え尽きないように。そういうバランスを探し続けるのが、相談業務の難しさです。

相手の感情まで背負ってしまう

ときどき、「泣かせ屋」と冗談まじりに言われることがあります。相談中に相手が涙を流すことがあるからです。でも、そうなると私はその感情をもらってしまう。もちろん泣くわけではありませんが、終わったあと、ぐったりしてしまう。自分の問題ではないのに、重さが残る。それが日々積み重なると、人と向き合うこと自体が怖くなってしまうのです。

相手の無言に勝手に傷つく

相談者の返事が曖昧だったり、沈黙が続くと、「あれ、何か気に障ったかな」と不安になります。たぶん、向こうはただ考えていただけかもしれない。でも私はそれを「否定された」と捉えてしまう。過去に怒鳴られた経験が、今でもどこかに残っているのかもしれません。そのせいで、普通の会話すらこわごわと進めることがあるのです。

同業者や役所との付き合いに疲れる理由

同業者との飲み会や、役所とのやり取り。必要なものだと分かっていても、気を遣いすぎて毎回どっと疲れます。人にどう見られているか、話題の選び方、声のトーン、名刺の出し方、全部気になる。まるで野球部時代の先輩に接するような気の使い方を、いまだにやってしまうのです。

顔を合わせれば気を使う

私の住んでいる地域は狭いので、顔を合わせる機会も多く、つい「また会ったな」と思われないように意識してしまいます。役所に書類を出すだけでも、「今日は誰が窓口だろう」と変に身構えてしまいます。相手は気にしていないかもしれませんが、自分だけがぐるぐると気にしてしまう。そんな毎日に疲れてしまうんです。

業務連絡だけで済まないことが多い

本当は「書類出しました、よろしくお願いします」だけで終わらせたいのに、近況を聞かれたり、世間話が始まったり。雑談が苦手なわけじゃないのに、仕事モードの自分にはなかなか切り替えができません。結局、愛想笑いでその場を乗り切って、帰ってから「疲れたな」とひとりつぶやくのです。

それでもこの仕事を続けている理由

こんなに「人と関わること」に苦しんでいながら、それでも司法書士の仕事を続けている理由は何なのか。自分でも時々考えます。でもやっぱり、誰かの困りごとを少しでも軽くできた瞬間に、続けていてよかったと思えるんです。報われることは多くないけれど、ゼロじゃない。そのゼロじゃない瞬間のために、今日も机に向かっています。

誰かの「助かった」に救われる瞬間

「先生に頼んでよかったです」この一言だけで、何日もモヤモヤしていた疲れがスッと軽くなる瞬間があります。たとえ報酬が少なくても、その言葉にはお金には換えられない力があります。こういう瞬間に出会えるから、また頑張ろうと思える。それが、私がこの仕事を辞められない理由なのかもしれません。

報われない日々の中にある小さな光

毎日が報われるわけではありません。むしろ、うまくいかないことの方が多いです。でも、ごくたまに差し込む小さな光が、全部を救ってくれるような気がします。その光を信じて、今日も書類とにらめっこしている自分がいます。

必要とされることへの依存と矛盾

人と関わるのが怖い。でも、誰にも必要とされないのも怖い。この矛盾に、私はずっと折り合いをつけられずにいます。それでも、誰かに必要とされたとき、やっぱり嬉しいと感じてしまう。その自分を受け入れていくことが、今後の課題なのかもしれません。

自分の弱さと向き合いながら進む

私は強くありません。気も小さいし、根に持つし、いつも不安を抱えています。でも、そんな自分だからこそ、誰かの痛みに敏感でいられるのかもしれません。無理に変わろうとするのではなく、弱いまま進む方法を探していきたいと思っています。

完璧じゃなくていいと認める勇気

元々私は完璧主義でした。間違いを許せず、自分にも他人にも厳しくなってしまうタイプです。でも、ある日ふと「それってしんどいな」と思ったんです。そこからは、少しずつ「まあいっか」と言える自分を育てるようにしています。今も修行中ですが、それだけで心が少し楽になります。

弱音を吐く場所があることの大切さ

このコラムを書くことも、私にとってはひとつの「弱音を吐く場」です。読んでくれる人がいるかは分かりませんが、誰かが「わかるな」と思ってくれたら、それだけで報われます。同じように、頑張っているけど少しだけ疲れてしまった司法書士さんがいたら、この文章がその人の小さな灯りになればいいなと願っています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓