司法書士事務所に届いた一本の電話
午前10時、コーヒーを淹れたばかりのタイミングで、受話器のベルがけたたましく鳴った。いつも通りサトウさんが無表情で受話器を取り、要件だけを簡潔にメモしてこちらに差し出す。
「相続で揉めてるらしいですよ。旧家の不動産、仮登記が残ってるとか」——何でもないような言葉だったが、俺の胸にざらついた違和感が残った。
仮登記——それは、完全な所有権ではない、いわば“保留”の証明。なのに、それが長年そのままだというのは、何かを隠しているのか、あるいは誰かが隠されたのか——。
古びた家屋と複雑な相続事情
現地に向かう途中、助手席でサトウさんが「Googleマップだと、道の途中で切れてますね」とつぶやいた。まるで行き止まりの真相を示唆するかのようだ。
目的地は戦前からある古びた木造住宅。窓枠の塗料は剥げ、玄関のベルは鳴らなかった。出迎えたのは中年女性、依頼人の姉だという。
「弟が亡くなって、相続の手続を…でも、登記が変なの。父の名義のままで、しかも“仮”って書いてあって…」
名義変更を巡る不可解なやりとり
事情を聞くと、確かに父名義のままで“仮登記”が残っていた。しかも、仮登記の申請者は別人。依頼人もその名前に心当たりがないという。
しかも、登記の申請日が奇妙だった。死亡日よりも後の日付で記録されていたのだ。これは、申請が実際にされたのが死後である可能性を示唆している。
「申請書、見てもいいですか?」と訊くと、古い封筒に入った数枚のコピーを差し出された。そこには旧字体で書かれた名前と印影——明らかに、捏造されたものだった。
依頼人の不自然な沈黙
弟の死亡届が提出されたのは一ヶ月前。だが、病院の診断書を見ると、実際の死亡日はその一週間前だった。空白の七日間——その間に何が?
依頼人の口は重く、まるで“その間に何もなかったこと”を必死で訴えているようだった。だが沈黙の中にこそ、答えはある。
ふと、サトウさんがぽつりとつぶやいた。「この人、弟さんが死んだと知らなかったって言ってますけど、鍵を預かってたのは誰だったんでしょうね」
言い淀む理由とその裏にあるもの
鋭い指摘だった。鍵を持っていたということは、誰かが死亡後も家に出入りしていたことになる。しかも、それを隠す理由がある。
「あの人が亡くなったって聞いたのは…葬儀の後でした」——嘘だ。診断書にある死亡日時と、死亡届提出日時の矛盾は、それを裏切っている。
依頼人は、何かを知っていた。そしてその何かは、仮登記と深く結びついていた。
登記簿の仮登記に残された謎
法務局で原本を閲覧する。仮登記の根拠となる書類は「買戻し特約付き譲渡契約書」だった。しかし、それには決定的な不備があった。
印紙の消印が存在しなかったのだ。つまり、この書類は有効な契約書ではない可能性が高い。さらに、証人欄には明らかに筆跡の異なる署名があった。
「これは…捏造ですね」サトウさんの冷静な分析に、俺は黙って頷いた。
登録されていた見知らぬ名義人
仮登記の申請者「ミナカミ トオル」。法務局の職員も聞いたことがない名前だった。調べると、その名前は10年前、別の事件で使われた“偽名”と一致していた。
俺の頭の中で、過去の記憶がリンクした。数年前、空き家を仮登記して実際に転売していた詐欺グループが摘発された。その中に「ミナカミ トオル」はいた。
つまり、これは司法書士としての案件というより、限りなく“犯罪”に近い——。
調査開始と司法書士の執念
一度着火した好奇心と正義感は、俺を止められない。たとえ相手が過去の詐欺師だろうと、登記簿の中に不正を見逃すわけにはいかない。
サトウさんは最初こそ「私、残業イヤですよ」と言っていたが、結局は黙って調査資料を集めてくれていた。塩対応の裏に、信頼がある。
「これ、法務局の印影コピー、日付がずれてます」彼女は俺に黙って、他の書類も照合していたのだ。
地元の法務局での意外な証言
仮登記が出された日に窓口にいた職員が言った。「その日は“代理人”の男性が来たはずですよ。ご本人は高齢だと聞きましたから」
“代理人”——また出てきた影の人物。その男の特徴を聞くと、「黒縁メガネに、なんだか“サザエさんのノリスケ”みたいな調子のいい人でしたよ」と笑った。
「……つまり、うさんくさいってことですね」俺は思わず、苦笑いした。
近隣住民の証言から見えた過去
家の近所を回ると、老人がぽつりと語った。「あの家、ずいぶん前にも同じようなことがあったんだよ。登記が変だって」
調べてみると、過去に売買契約が成立しかけたが、登記の仮処理のまま立ち消えになっていたという。
同じパターンで繰り返される事件。まるで推理漫画の第2巻で伏線が回収されるかのようだ。
消えた相続人の影
さらに調査を進めると、もう一人、本来相続人であるはずの甥の存在が浮上した。しかし、行方不明扱いとなっており、連絡も取れない。
戸籍を辿ると、彼の名前は一度だけ、仮登記と同じ日に申請された住所変更に現れていた。これが偶然の一致とは思えない。
「これはもう、司法書士の仕事じゃなくて探偵の仕事ですよ」とサトウさん。確かに、コナン君でも呼びたい気分だった。
仮登記の背景に潜む策略
すべてのピースが揃ったとき、ようやく全貌が見えた。亡くなった弟の死を待ち構えたように、仮登記を出した詐欺グループ。
鍵を預かっていたのは依頼人の姉。だが、それは彼女が関与していたのではなく、騙されていたのだった。
不動産ブローカーを装った詐欺師が、仮登記の名義変更を“相続対策”と偽って話を持ち掛けていたのだ。
二重契約と遺言の食い違い
さらに問題を複雑にしたのは、遺言書に書かれた不動産の扱いと、実際の登記内容との食い違いだった。二重契約のような形になっていたのだ。
しかし、仮登記の無効が証明されたことで、すべては白紙に戻る。あとは正式な遺産分割協議をやり直せばよい。
一件落着。俺は疲れた体を伸ばして、呟いた。「やれやれ、、、」
サトウさんの冷ややかなツッコミ
「で、今日の登記申請書はいつ出すんですか?」とサトウさんが冷静に言った。
「……あっ」俺は自分のデスクの上に山積みになった書類を見て青ざめた。探偵ごっこに夢中になって、現実が抜けていた。
「最後に活躍した風で終わらせようとしてますけど、現実は変わってませんからね」彼女はそう言い残し、デスクに戻っていった。
解決後の事務所に戻る日常
午後の静けさの中、俺はようやく一息ついた。外では蝉が鳴いている。夏だ。だが、俺の仕事に夏休みはない。
コーヒーを温め直し、サトウさんに差し出そうとすると「私はアイス派です」とバッサリ。……今日も、いつも通りだ。
書類の山を前に、俺は机に向き直った。また新たな謎が、どこかで俺を待っているかもしれない。