誰かにがんばらなくていいと言ってほしかった夜
自分ではそんなつもりがなくても、ふとした瞬間に「限界かもしれない」と思うことがある。書類の山に囲まれた事務所、鳴りやまない電話、そして「早くお願いします」とせっつかれる依頼者の声。頭ではわかってるんだ、これは仕事であって感情を持ち込むのは筋違いだって。でも、そんな理屈じゃ抑えきれない夜がある。たとえば帰り道、車の中でラジオを消した瞬間に静けさが押し寄せてくる。がんばっても報われないことばかりで、心のどこかで「もう、がんばらなくていい」って言ってくれる誰かがほしくなる。
気づけばずっと無理してた
がんばっている自覚なんて、あまりない。でも、ふとした瞬間に「これ、普通の状態じゃないな」と思うことがある。例えば、朝出勤前に鏡の前で無意識に深呼吸してる自分を見て、思わず笑ってしまった日があった。自分で自分に「落ち着け」って言ってるのか、と。そうまでしないと始まらない日常って、もうだいぶ無理してる証拠だったのかもしれない。誰かに頼るのが下手くそで、弱音を吐くことに罪悪感すらある。でも、心の奥ではもう「もう少し楽にしていいよ」と言ってもらいたかった。
優しさを期待するのが悪いことみたいで
司法書士という肩書きを持ってしまうと、「しっかりしてて当然」という空気がまとわりつく。依頼者に頼られるのはありがたいこと。でもその一方で、自分が弱ることは許されないような気がしてくる。何か困ったことがあっても、「それくらい自分で何とかしないと」と反射的に思ってしまう。人の優しさに触れたくても、素直に受け取るのが怖い。それでいて、「あの人は甘えてる」なんて誰かの言葉が頭にこびりついて離れない。期待すること、頼ること、それを自分に禁じていた。
がんばってる人ほど助けを求めにくい
結局のところ、がんばり屋ほど「がんばってないように見せる」のがうまい。そういう人って、実は誰よりも助けを必要としてるのに、それを出せずに一人で抱え込んでしまう。自分もそうだった。事務員の子が体調を崩したときも「ゆっくり休んでね」と言いながら、自分は昼食も抜いて業務を回した。誰も見ていないところで、がんばりすぎている人間は案外たくさんいる。でも、だからこそ、そういう人にこそ「がんばらなくていいよ」って言葉が届いてほしいと思う。
司法書士という肩書きが重たく感じる日
「しっかりしてるね」と言われるたびに、心のどこかで「そんなことないのに」とつぶやいていた。司法書士は責任ある仕事だ。間違いが許されない、信頼が第一、でも人間なんて完璧じゃない。日々の業務の中で、小さな判断ミス一つが命取りになる。それを理解していながら、それでも今日も目の前の業務をこなす。けれど、たまにその「肩書き」に潰されそうになる日がある。自分で選んだ道なのに、「司法書士であること」から逃げたくなることもある。
しっかりしてそうに見えるけど中身はぐらぐら
「信頼してます」と言われると、それだけで緊張が走る。期待されているからには、応えなければならない。でも本当は毎日、分からないことや不安なことと向き合いながら手探りでやっている。完璧に見せなきゃいけない職業ほど、その裏側の不安定さがつらい。誰かに「しんどいね」って言ってほしいだけなのに、それすら言えない自分がいる。しっかりしてるフリをして、ひび割れた心を抱えたまま笑ってる。そんな自分が時々、哀れに思えてしまう。
失敗が許されないプレッシャーと孤独
登記ミスひとつで依頼者に損害が出る。だからこそ、何度も確認して、チェックして、また確認する。なのに、それでも完璧じゃない自分が不安になる。常に背中には「失敗するなよ」という声がある。それは他人の声ではなく、自分自身の声。そんなプレッシャーの中で働いていると、ふと孤独に包まれる。「誰かと一緒に背負ってほしい」そんな願いを持ったとしても、結局は一人でやるしかない現実がそこにある。
ただの人間ですって言えたらどれだけ楽か
肩書きや責任から離れて、ただの自分として「今日はしんどいです」と言えたらどれだけ楽かと思う。でも言えない。事務員にも心配かけたくないし、依頼者にも迷惑をかけたくない。だから一人で抱え込んで、「大丈夫そうな顔」をして過ごす。人間って本当はもっと不完全でいいはずなのに、「司法書士だから」という理由だけで、完璧を求められることに疲れてしまう。だからこそ、誰かに一言「無理しなくていいよ」と言ってもらいたくなる。
がんばらない選択肢を自分に許すということ
ある日、急に風邪をひいて、寝込んだことがあった。そのとき、強制的に「がんばれない状態」になって、初めて気づいた。がんばらなくても、世界は案外回るんだなと。その分のしわ寄せはある。でも、自分が倒れてでもやるべき仕事なんて、実はそう多くはないのかもしれない。がんばらない日があってもいい。休む日があっても、迷う時間があっても、立ち止まる勇気のほうが尊いこともある。
頑張らなくても意外と世界は回る
自分がすべてを支えていると思い込んでいた。でも休んだ日、意外と事務員が回してくれていた。少し時間はかかったけど、依頼者からのクレームもなかった。それを見て、なんだかホッとしたのを覚えている。自分がいなくても大丈夫な場面もあるんだと知ることができたのは、ある意味で収穫だった。全部自分でやらなきゃと勝手に思い込んで、勝手に疲れていた自分に、「もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないか」と声をかけたくなった。
がんばる基準を他人に合わせない
「あの人はもっとできてるのに」「なんで自分だけ」そんな比較はもうやめたい。他人の頑張りを自分の基準にしていたら、いつまでたっても満たされない。人にはペースがあるし、状況も違う。自分の体力や気持ちに合ったがんばり方があっていいはずだ。もっと自分に優しくなってもいい。苦しくなったら止まっていいし、疲れたら立ち止まって深呼吸していい。そういう選択を「逃げ」だとは思わないようにしたい。
それでもいいと言ってくれる人が一人いれば
本音を言えば、どこかで「大丈夫だよ」「無理しなくていいよ」と言ってくれる人が一人いるだけで救われる。自分のことを理解してくれる人、自分を認めてくれる人がそばにいるなら、がんばらなくても安心していられる。今はまだいないけれど、もしいつかそんな人が現れたら、自分のことをもう少し好きになれる気がする。その日が来るまで、自分自身がまず「がんばらなくていい」と自分に言ってあげようと思う。
がんばらないでいられる居場所を探して
人はがんばる場所と、がんばらなくていい場所、その両方が必要だと思う。今の自分には前者しかない。だから、心のバランスが崩れてしまうのかもしれない。趣味でも、友人との時間でもいい。がんばらなくても許される場所が一つでもあることで、人は少しだけ楽になれる。これからはそんな場所を自分の中に作っていきたい。たとえば、疲れた夜に何もせず寝落ちできる日が、そんな場所のひとつかもしれない。
仕事以外の自分を受け入れる時間
仕事が人生のすべてになってしまうと、苦しくなる。特に、司法書士のように「信頼されること」が前提の仕事をしていると、自分の弱さを出すのが難しくなる。でも、仕事が終わったあとの時間くらいは、自分を甘やかしたっていい。野球をしていた頃のように、ただがむしゃらに身体を動かすことも、最近では全然していない。あの頃は考えなくても楽しかった。あの感覚を、少しでも取り戻せたらと思う。
モテなくても独身でも気楽な夜はある
たしかに、独り身は寂しい。仕事でクタクタになって帰っても、誰も迎えてはくれない。でも、だからこそ自由もある。カップラーメン片手に好きな番組を観ながらふと笑える瞬間、誰にも気を使わずに布団にもぐりこむ夜、それはそれで悪くない。人には人の幸せがある。自分なりの心地よさを大事にしたい。モテなくたって、誰かに必要とされなくたって、自分を認めてあげる夜があったっていい。
元野球部の意地もたまにはお休み
根性論で乗り越えてきた部分がある。元野球部というだけで「我慢強いですね」と言われたりもする。でも、本当はそんなに強くない。ただ、がんばることしか知らなかっただけ。最近は、そんな意地を張るのも疲れてきた。がんばり続けることが美徳だとは、もう思えない。むしろ、「がんばらない」という選択をできる人のほうが、大人なんじゃないかとさえ思う。だから今日はもう、意地を張らずに休もうと思う。