朝一番に気づく 靴底の削れた跡が語るもの
朝、玄関で靴を履こうとしゃがんだ瞬間、靴底の減りに気がつく。特に左足の外側だけ妙にすり減っているのが、なんとも自分らしい気がして、思わず苦笑いした。片道15分の通勤路。誰とも話さない静かな時間だけど、確実に僕の革靴は仕事をしているらしい。事務所に着いてしまえば、あとは座りっぱなし。パソコンとにらめっこしている間も、靴はただ、椅子の下でおとなしくしているだけだ。
歩いてるだけで一日が終わる気がして
通勤というのは、不思議な儀式のようなものだ。仕事が始まる前から、すでに一日を消耗している気がする。朝の電車に揺られ、誰とも視線を合わせず、ただ同じ風景を通り過ぎる。これを「働いている」と言っていいのかとふと考えてしまう。特に、外回りがない司法書士にとって、通勤は運動であり、唯一の「社会との接点」かもしれない。だけど、帰り道にはもう体力も気力もなくて、ただ惰性で歩いているだけの自分がいる。
駅までの道が一番アクティブな時間
皮肉なことに、一日の中で一番アクティブなのが朝の駅までの道だ。歩くペースも速いし、頭の中も妙にクリアで、今日のタスクを思い浮かべながら「あれは後回しにして…」と段取りを考えている。けれど、実際に事務所に着くとその計画の半分も実行できず、電話や急ぎの書類に追われて終わる。あの朝の時間だけが、自分にとって“理想の働き方”をしている気がする。靴の減りは、その“理想”への努力の痕跡かもしれない。
机に座るともう消耗は止まったように見える
事務所の椅子に腰を下ろした瞬間、すべてが止まったように感じる。体も頭もまだ動いているはずなのに、心だけがふっと離れていく。外から見れば、「仕事してる」と言えるのだろう。でも、実際には内心で「今日も乗り越えられるか」と自問してばかり。靴はそこで黙って、ただ足元にいる。歩いていた時のような熱量はなく、どこか置き去りにされたような存在だ。まるで、意志のない自分自身を見ているようで、たまに怖くなる。
お客様と会わずに減っていく革靴の謎
以前、ふと「この靴、いつ磨いたっけ」と思ったことがある。それくらい、お客様に会う機会は減っている。オンラインのやり取りが増え、郵送と電話で完結する業務が大半。なのに、靴は減っている。たった15分の通勤で? それとも、休日の買い物で? いや、たぶん、毎日同じ場所に向かうという“惰性”が、靴をすり減らしているのだ。変わり映えのしない日々の繰り返しが、見えない摩耗を生んでいる。
誰とも話さず靴だけが会話してるみたいな日々
司法書士という職業は、意外と孤独だ。顧客対応も事務員任せになりがちで、自分はただ淡々と登記を処理し、申請書を整えるだけ。誰とも話さない日もある。そんな時、駅からの帰り道に足元を見ると、「お疲れさま」と靴が言ってくれている気がする。滑稽だけど、本当にそう聞こえるのだから仕方ない。誰かに労われたいという気持ちが、そういう幻想を生むのかもしれない。
それでもスーツを着る理由があるのか
外出予定のない日でも、スーツを着る。それが自分なりの“仕事モード”へのスイッチだ。でもふと「誰にも見られないのに、なぜ?」と思う瞬間もある。ヨレたジャケット、擦れた革靴、ネクタイの結び目が少しゆるいだけで気持ちが萎える。逆に、ピシッとした身なりにすると、少しだけ背筋が伸びる。誰のためでもない。自分のために身支度を整えることで、なんとか心の折り合いをつけているのだと思う。
事務所に戻ると現実に引き戻される
朝の通勤がどれだけ軽快でも、事務所に着くと一気に現実に引き戻される。メールの未読がズラリ、FAXがガチャガチャと鳴る。PCを立ち上げる間もなく、事務員さんから「至急」の一言。あっという間に「自分のペース」は奪われる。それでも机に座れば、やるしかない。誰にも代われないこの仕事を、今日も一人で回すしかないのだ。
デスクに積まれた書類の山と無言のプレッシャー
紙の重みには、実体がある。デスクの上に積まれた書類を見ているだけで肩が重くなる。ひとつひとつは小さな案件でも、積もれば「仕事してる感」だけはやたらある。だけど実際には、その山を崩しても達成感はほとんどない。ただ「今日もこなした」に過ぎない。だからこそ、減っていく靴底の方が、まだ“前に進んでいる”という証拠になる気がする。少しの進行でも、視覚的に見えるのはありがたい。
事務員との会話が唯一の気晴らし
一人で事務所を回していると、孤独が積もる。そんな中、事務員との何気ない会話が、唯一の癒しになる。ちょっとした世間話、昨日見たテレビの話、事務用品の補充についての相談。どれも他愛ないけれど、それがなければ、たぶん心が擦り切れていた。事務員さんの一言で笑えると、靴底の減りも少し報われる気がする。誰かと“共有”することの大切さを、日々痛感している。
元野球部だった頃の靴の減り方が懐かしい
高校時代、野球部だった僕は、スパイクの減りを誇らしく見ていた。泥だらけの靴が努力の証で、ヘトヘトになってもグラウンドを歩くのが嬉しかった。今の靴は、そんな誇らしさを持てない。ただの移動手段。だけど、たまにあの頃を思い出すと、「がんばる」ってどういうことかを思い出させてくれる。あの頃の自分と、今の自分。靴の減り方ひとつにも、時代の違いがある。
グラウンドの砂を噛んでたあのスパイク
練習後、スパイクを脱ぐと、必ず砂が詰まっていた。その砂を落としながら、「今日もがんばった」と感じていた。靴の汚れが、努力の証だった。今はどうか。真っ黒なビジネスシューズ、ほこりの一つないピカピカの見た目。でも、その中身はすり減っている。気づかないうちに、心のスパイクはすり減って、空回りしているのかもしれない。
今の靴は舗装された現実の上を黙って進む
アスファルトの道を、音もなく歩く革靴。以前のように、土を蹴る感覚はない。踏み込んでも、響いてくるのは足音だけ。舗装された日常は、確かに楽かもしれない。でも、その分だけ達成感や実感が薄れている。仕事はこなせているけれど、「やりきった」と思える日が少ない。靴だけが、毎日同じ距離を歩き続けている。それが今の僕の現実だ。
通勤だけじゃない 自分も減ってる気がする
靴が減っているのは、通勤だけじゃない。自分自身も、少しずつ摩耗している気がする。見えない疲れ、声に出せない不満、言葉にならない焦り。だけど、それでも前に進んでいくしかない。靴が減っても履き続けるように、自分もすり減っても仕事を続ける。そうすることでしか、日常を保てないのだ。せめて、誰かがこのコラムを読んで「わかる」と思ってくれたら、それが救いになる。