恋の登記簿どこにありますか
恋にも登記簿があったなら
「先生、婚姻届の証人欄って、どこまで書くんでしたっけ?」
その日、事務所の午前はいつも通り、平穏に始まった。けれど、サトウさんが机の上に無造作に置いた一枚の紙、それが俺の胸にズドンと響いた。
婚姻届。
俺の心臓の登記簿があったら、そのとき「地震・洪水・火災」の三連コンボが記録されたかもしれない。
「名前と印鑑だけですよ、証人は」
精一杯、何でもない風を装ったが、胸のあたりがスースーする。
あの子が結婚する。俺の事務所の、あのサトウさんが。
所有権より難しい「気持ちの証明」
司法書士として、所有権、抵当権、信託、何でも登記できる。証明もできる。でも、「この想いは本物だ」なんて感情は、どこにも登記できない。
「恋愛登記簿があればいいのにね」
サザエさんに出てくる波平が、朝の新聞片手にポツリと言いそうな台詞を、俺は心の中で呟いていた。
司法書士としての俺の矛盾
書類には強いが恋には弱い
そりゃそうだ。俺は45歳。独身。元野球部。最近はキャッチボールどころか、キャッチミスばかり。モテない。髪も少しずつ後退している。進むのは登記簿だけ。
だから、サトウさんの「相手」が誰かなんて訊けない。
訊いてしまったら、たぶん俺の心の謄本がボロボロになる。
申請書は出せるのに告白は出せない
恋愛の申請書があったら、きっと未提出のまま俺の引き出しの奥にある。それを提出する勇気はない。却下される自信だけはある。
サトウさんには絶対言えない話
「先生、証人欄、先生にお願いしてもいいですか?」
そのとき俺は、心の中で1000回くらい「やめてくれ」と叫んでいた。
けど、口から出たのは「……いいですよ。書きます」だった。
やれやれ、、、司法書士ってのは、本当に損な役回りだ。
恋愛感情を登記するなら
受付窓口はどこですか
たとえば法務局に「第1号 恋愛登記簿」という制度ができたら、俺は真っ先に並ぶだろう。「申請人 シンドウ」「登記の目的:想いの保存」なんて。
添付書類は「優しさ」と「思いやり」?
俺の控え室の奥にでも、「思いやり」の原本が眠っている気がする。でも原本還付はできない。相手に渡す方法が、俺にはわからない。
登録免許税はハートで支払います
いや、もう税金とかそういう問題じゃない。支払えるなら、心ごと差し出したい。
婚姻届と向き合ったある日の出来事
サトウさんが差し出したあの紙
あれは、たぶん、彼女にとっての新しい「人生の登記簿」なんだろう。俺が関与するのは、証人欄だけだ。
誰かの幸せが、ちょっとだけ胸に刺さる
結局、書いた。名前も住所も、印鑑も。登記簿謄本より丁寧に。
彼女は「ありがとうございます」と笑った。俺は「お幸せに」と返した。もう、それ以上の言葉は要らなかった。
やれやれ、、、これが司法書士の宿命か
恋を見届ける側。愛を保証する裏方。法務局ではなく、感情局があったなら、俺も違う生き方ができたのかもしれない。
それでも恋を“登記”したい理由
人生に名前を残すように
誰かの物語に、自分の名前が刻まれること。それはたぶん、所有権移転より重いことかもしれない。
恋にも正当な記録を
消えていく想いじゃなく、記録されて残る想いを――。それを願ってしまう自分が、まだいる。
俺にだって、恋の所有権を認めてほしい
でもね、まだ諦めたわけじゃない。きっとどこかに、俺の登記申請を受理してくれる人がいるはずだ。
そのときこそ、「恋の登記簿はここにあります」って、胸を張って言いたい。
その日まで、俺は登記簿と向き合っていくんだ。サトウさんがいない事務所でも。